マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

君原健二さんに寄せて(その1)

2012年02月11日 | スポーツ

 朝日新聞夕刊に「人生の贈りもの」という欄があり、1月21日~25日までは君原健二さんが登場していました。1968年に行われたメキシコ五輪のマラソンでの銀メダリストです。引退後もマラソン大会に参加し、合計60回のマラソンを走り、棄権ゼロという輝かしい実績を持ちます。現役時代も含めて、その走りや生き方に共感を覚え、応援をし、私のランニングにも少なからず影響を与えてくれた、私と同い年君原健二さんに、新聞紙上とは言え再会出来、自分のランニングの来し方をも思い出しました。

 小学校の頃の徒競走で、私は3位以内に入った記憶がありません。不得意科目の一つでした。それが中学2年生の時の校内マラソン大会で突然2位入賞を果たします。原因は明瞭です。小学校卒業の翌日から始めた新聞配達は、出来るだけ早くお客さんに新聞を届ける為に、走って配る事が奨励され、強制もされました。重いものを抱えて走る訳ですから、今で言う負荷トレーニングを毎日やっている様なもの。負荷無しで走る校内マラソンは普段に比べて格段に楽に走れたのでした。中学3年生の時の運動会で1500mにも準優勝出来ました。
 中学卒業後の社会人時代や大学生のころはランニングと縁がありませんでしたが、教員になって13年目に赴任した向丘高校に「クロスカントリー」というランニング大会があり、若手教員は生徒と一緒にその大会に参加すべく、校舎の周りでのトレーニングをやっていました。昔取ったなんとやら、すぐさま私もこの練習に参加。これがその後私がランニングやマラソンにのめり込む切っかけになりました。日頃の練習場所は今問題になっている皇居周回コースか六義園。参加した大会は青梅マラソン・河口湖マラソン・佐倉マラソン・荒川マラソン等々、数え切れない数に上ります。自己ベストは河口湖マラソンでの3時間16分台でした。
 私のランニング空白時代に、マラソンで活躍していたのが、円谷幸吉や君原健二です。1964年の東京五輪では円谷は銅メダル。君原は8位に終わりました。ただ彼の不屈とも言うべき姿はテレビ観戦で感銘を受けていました。首をかしげ左右に振りながらの走法は今にも倒れそうに見えながら、それでも全力を出し切っている姿に感動したのでした。その後出場した全てのマラソンを完走したことを知り、ますます彼を尊敬する様になりました。その後自分がマラソンを走る様になったときに、苦しい場面で思い出したのは彼の姿でした。
 今回彼の人生経路を読んで、私の想像していたとは大分イメージの違う事柄もありましたが、基礎的な認識は全く変わりませんでした。それについては次回ブログで。