朝日新聞夕刊登場の「人生の贈りもの」はインタビュー形式で記事が仕上がっています。そこから浮かび上がる君原健二像を時系列で追ってみると、
小学校時代の成績は所謂5段階評価で5が一つもなく、自分は運動も勉強もできないと劣等感を抱いてしまい、その意識がずうっと身にまつわりついてきたそうです。それが、中学1年時、校内持久走大会で200人中11位に入り、それが原因で、誘われて駅伝クラブに入部。3年生で駅伝代表選手の最後の一人にギリギリで選ばれ、その事が彼の価値観を大きく変える出来事になったようです。高校進学後、高校総体1500メートルに出場するも予選落ち。駅伝では区間賞を出したこともなく、八幡製鉄(現新日本製鉄)へは、駅伝大会へ出場する選手が足りないからとの理由で入社が内定。
ここまで読んで来て、一流と言われるマラソン選手からは考えられない様な平凡なコースを歩んで来た事を知ります。小さい頃の劣等感を抱き続け、一流選手にはなれるはずがないと思いながらも走る続けた10代。ただ「練習しろ」と誰からも言われないで、自分からグランドに出て行かねばならなかった事で、自主性を育てることが出来たのは良かったとも語っています。
八幡製鉄入社後、すでに2人の先輩が東京五輪を目指しマラソン練習を始めていたのに刺激された君原もマラソン練習を開始し、1962年、21歳で朝日国際マラソン初出場。順位は3位で、日本最高記録でした。高校時代まで全く無名の陸上選手が2年数ヵ月の練習で何故この様な成果をあげられたのか。この間の過ごし方に焦点を当ててのインタビューがなされていないのが残念ですが、兎も角、「手の届く様な目標しか持てない、気の弱い人間でしたけれど、この時はじめて大きな目標を持てました」と述べています。1年半後に迫っていた東京五輪を意識し始めたのでした。
東京五輪では、円谷幸吉はトラックでヒートリー(英)に抜かれ3位銅メダル、期待の一番大きかった君原は8位に終わります。この時のコーチが名伯楽として名高い高橋進。私の目には素直な性格に見えた君原がコーチに反抗しながらの練習の日々であったとは、この記事を読んで初めて知った事柄です。
五輪後、退部届を出した君原を再度の五輪挑戦へ向かわせたのも高橋進コーチ。メキシコ五輪では銀メダル。このとき彼はゴール直前で初めて後ろを振りかえりました。自殺して亡くなった親友円谷の無念さをも思い、何とかメダルをとの想いがそうさせた様です。ミュンヘン大会は5位入賞に留まりましたが、オリンピックでマラソン3回出場は君原のみ。2大会連続入賞は中山竹通と二人。
全競技人生でマラソンでの優勝12回。引退後もマラソンを続け、60回全て完走を続けるランニング人生は輝かしいものですが、そんな彼からの”教訓”は奇をてらうことなく平凡です。子ども向けの色紙には「人間に与えられた最大の力は 努力です」と書く事が多い多いそうです。言い古された”努力”という言葉が、学生時代何の実績の無かった君原が語るとき、その重みを感じます。
現在は大学特任教授にして、毎年円谷の墓参りを欠かさないという。数年前からパソコンを始め、ブログを書き、毎日お酒を飲むという。その様な彼は身近に感じられます。