マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

音無川と王子街道(最終回)

2016年02月01日 | 江戸の川・東京の川

 王子街道の始点・終点を求めて、音無川・石神井川周辺を4回ほど歩き回って来た。今回のブログではそのまとめを記しておきたい。

 
王子から上流の石神井川付近と下流の音無川沿いでは状況がかなり異なっていた。
 王子の上流の武蔵野台地側には、『江戸―東京重ね合わせ地図』(以下古地図)を見る限り、中山道より下流の石神井川沿いに道は殆ど無い。石神井川は広大な敷地を持つ加賀藩下屋敷内を流れていて、王子付近では崕雪頽だ。幕藩体制が崩れ去り、明治維新後の明治21年に初めて板橋宿から王子にかけて、生活や産業などの必要から「王子新道」が造られたのだ。
 
その新道が埼京線と交差する地点に「王子街道」の文字は見えるにしても、道路標識に「王子新道」と書かれ、その謂れとともに“王子新道”の碑が建てられている以上、この街道は“王子新道”と呼ぶべきだろう。年を経て人々が“王子街道”と呼ぶことがあったとしても。という訳で、武蔵野台地側には王子街道の痕跡は見いだせなかったに等しい。(写真:再掲)







 王子から下流の音無川沿いはどうか。こちらを古地図で見ると、音無川に沿ってずうっと道が続き、この街道が何時からかは分からないが王子街道と呼ばれていたと考えられる。善性寺前にして羽二重団子本店脇の碑の存在から推して、王子から少なくもここまでは王子街道であったと言っても過言ではない。ネット上、ここから街道は芋坂方面に右折しているとの説も見かけられるが私はそうは思わない。音無川が浅草方面へと流れていた事実から、音無川沿いの道は多くの人が行きかう街道の賑わいもあり、ある地点まで“王子街道”と人々の口に上っていたのではないか。文献上の事は私には分からないが、推測するに日光街道あたりまで王子街道と呼ばれていたと考えたい。

 率直に語れば、そこに音無川が流れ、道沿いに街道があったという事実が大事で、何処までが王子街道であったかの詮索はあまり重要なこととは思えなくなってきたていた。それよりも気にかかるものを発見していた。
 右写真に見るごとく、現在の道筋の、台東区側に幾つもの灯篭と石の建造物を発見したのだ。音無川が暗渠となったのは昭和初期とあったから今から約80数年前。音無川の恵みや風景に馴染んでいた人々が、暗渠化によって川とその風情が失われてしまうことを嘆き悲しみ、音無川沿いにあった石灯篭や建造物を記念に残したとは考えられないだろうか。私にはそれより他の理由は考えられなかった。石灯籠は音無川のモニュメントとして80数年前に残され、今もそこに存在していると考えたい。
 
散策の新たな楽しさを味わった探索だった。(右の写真も下の写真も石灯籠や石の建造物)