マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

遊び心で街歩き(その2)

2016年02月05日 | 東京散歩

 王子新道は賑わいの乏しい街道だった。石神井川へと下る500mほどは商店が続き、銭湯(さくら湯)もあったが、東板橋体育館から先に店舗らしい建物は見当たらない。ただ体育館脇に立つ”王子新道”の碑を再度眺め、板谷公園や加賀公園など憩いの場所を過ぎると石神井川に至る。石神井川散策は冬枯れのこの時期より桜の頃ベストだ。石神井川を越えると埼京線踏切では、例の“王子街道”の看板。この長さ1380mの新道は権現坂で岩槻街道と合流。私はこの新道について最近知った知識を元同僚二人に自慢げに語ってしまった。





 
    (3年前の春撮影の石神井川)

 権現坂を下って直ぐに扇屋へ向かった。扇屋当主15代の早船君の担任だった菅原さんもいることもあり、彼に会おうとしたのだった。扇屋は料亭を既に畳みビル化され、ビルの一階で店頭販売をしていた。お店の前に立つとお年を召された方が店番をしていて、3人は自らの身分を名乗り当主に会いたい旨を告げると「私が当主です。息子は外回りに出ています」との事。早船家14代の当主さんだった。3人ともまずは玉子焼を購入し、今日はこの辺りの散策をしている事を語ると、当主さんは王子について俄かに能弁となっていろいろ事を語り始めたがこれは有難かった。

 音無川との命名は8代将軍吉宗との事。紀州の藩主だった吉宗は故郷を懐かしんで王子近辺の山や川に故郷と同じ飛鳥山や音無川と名付けたと。飛鳥山は吉宗が進めた享保の改革の一環として開かれ、江戸っ子たちにとって行楽の地として賑わってきたことは知っていた。それ以来江戸の桜の名所として現代の私達もその恩恵に浴し、元向丘高校は今年の春も花見を予定しているほどだ。飛鳥山の命名のみならず音無川も紀州の地からとったとは知らなかった。

 岩槻街道は現在は本郷通りと名付けられている。左手に飛鳥山公園の森を見ながら坂を上った。向丘高校でランニングを始めた頃、学校からここまでは熊倉さんとのトレーニングロードだった。飛鳥山でとんぼ返りした懐かしい地点を通り過ぎると一里塚。私はここでも知識をひけらかした。「ここは一里塚と呼ばれているが、何処から一里だか分かる」と聞いた。「日本橋から」という答えは返ってこなかった。二人の距離感は正確で日本橋からここまではもっと距離はあるはずと知っていた。私は「本郷追分からここまで4kmで、その道路標識もあったが、壊されてしまった」とその破壊の跡を指さした。(写真:本郷通り4km地点の道路標識は壊されている)


 一里塚を過ぎると道は二手に分かれる。左すれば田端・上野へ。右すれば上野台地を下り本郷台地へ。江戸時代、将軍様を乗せた駕籠を担いでも大丈夫なように坂はS字型に造られていて、長くて緩い坂道。両台地間の千駄木・谷中谷は幅が広いことを知るには絶好の地点だ。時間の都合で、今回は駒込駅まででショートカットし、線路沿いに巣鴨へと戻り、耳かきを購入後、磯丸水産の客となった。