かつてテレビから“時は流れない。それは積み重なる。”というフレーズが聞こえてきた日々があった。どこの会社のコマーシャルだったかは思い出せないが、それを実感する時があった。歳月や土に埋もれかけていた、歴史上の遺跡を掘り起こし、保存につとめて来た人々がいた。先週出掛けた“深谷行”で、案内して貰ったのは、「花湯の森」以外では「畠山重忠公史跡公園」、「鉢形城跡」の2ヶ所だが、そこから派生して「数学者 藤田雄山貞資」をも知ることが出来た。 まず訪れたのが川本町「畠山重忠公史跡公園」。ここには重忠の墓があった。重忠といえば、源平合戦・一の谷での戦いで“鵯越(ひよどりごえ)の逆落としで”名高い。愛馬を担ぎ下りたという英雄譚は『平家物語』にも登場していたが、智・仁・勇を兼ね備えた武士の鑑として後世に語り継がれ、この地の人々から敬愛されていたことを知った。公園名に”公”と入っているところからも、この史蹟を公にした人々の並々ならぬ思いが伝わってきた。
案内板に書かれていた内容を要約すると
『畠山重忠公は1164年、現在のこの地の畠山館に生まれた。豪勇にして文武両道にすぐれ、源頼朝に仕えて礼節の誉れ高く、県北一帯の支配のみならず伊勢などの地頭職を兼ね、鎌倉武士の鑑として尊敬されたが、源頼朝亡きあと、北条氏に謀られ1205年に二俣川にて一族とともに討たれた。重忠公42歳であった。この館跡には重忠公主従の墓として六基の五重塔がある』と。
(畠山重忠公の像)
公園入口にはこの近辺の地理板が掲示され、その中に「数学者 藤田雄山生家」とあった。帰宅後調べると、藤田雄山貞資は33歳で関流免許を受け、関流の4代目後継者となり、幕府の天文方において改暦の作業に従事したとある。“東の関流藤田、西の最上流会田”と呼ばれるほどの天才数学者で『精要算法』を著したともある。恥ずかしながら全く知らなかった。一昨日から読み始めた『江戸の天才数学者』7人にも登場していない。『精要算法』は、関流和算のさまざまな問題を分かりやすく解説したもので、多くの和算家の教科書として用いられたそうな。この本は手に入るべくもないが、現在はデジタル化されていてネット上でも読む事が可能だ。この書を読み込むには、まずは漢文の学習が必要なようだが・・・。
最後に訪れたのが寄居町にある「鉢形城跡」。構造は連郭式平山城と呼ぶらしい。平野の中にある山、丘陵等に築城された城で、これでは敵の侵入を防ぎ切れないと思うのだが、左にあらず。背後は深沢川と荒川が谷を刻む断崖上の天然の要害に立地し、私達もその丘陵から荒川の流れを眺めた。大手、外曲輪、三の曲輪などが現存し往時を偲ぶことが出来た。
”ださいたま”などと言うなかれ。埼玉は奥が深い!これが正直な感想である。(写真:いずれも鉢形城跡にて)