今回の旅行で一番驚かされたのは加治川に設けられていた分水路の水門だった。それは、加治川治水記念公園付近の桜を愛でつつ散策をしていた時のことだった。水門2つが90度位の角度で交わっている姿(右図参照)を見た時、これは一体何だ?と驚き、付近を歩き回ってその謂れが書かれた掲示板を発見。それを読んでこの水門の歴史を知った。非常に興味を覚え、帰宅してからネット学習もした。私なりに整理したものを書き留めておくと、
(水が満たされたときの写真)(1)古くから加治川は海岸線に沿って発達した砂丘列のため日本海へ流出できず、現在の新発田市真野原付近で左に大きく曲がり阿賀野川へ合流していた。(右図の水色の線がかっての加治川水路)
(2)明治時代入ると加治川の水害が悪化し、そこで加治川をなるべく短距離で日本海へ流そうとする分水路計画の機運が高まり、加治川分水路工事が1908(明治41年)より着工し、1913(大正2年)に完成した。(右図の赤丸地点で分水させた)
(3)分水路は現在の新発田市真野原から聖籠町次第浜まで4.9kmに渡り開削され、分水地点には加治川分水門が設置された(加治川本川に運河水門が4基、加治川分水路に土砂吐水門が4基)
(4)平時には運河水門を開放、土砂吐水門を閉鎖することで、加治川本川の農業用水や舟運用の水深を確保。出水時には運河水門を閉鎖、土砂吐水門を開放し、洪水を加治川分水路から日本海まで流下させた。分水路の完成により、流域の水害は激減した。
(5)しかし、1966(昭和41)年と1967(昭和42)年、流域は2年連続で大水害に見舞われた。
(6)その元凶は桜の根にあるとされ、流域にある6000本の桜は全て伐採されてしまった。 (7)水害後に加治川の治水計画が抜本的に見直され、さらなる河川改良工事が実施された。従来の加治川分水路が加治川本川となり、従来の加治川本川は派川加治川とされた。このとき加治川分水門は役割を終えた。要するに分水路が本川に昇格し、水路は一本のみとなった。(現在では加治川は右図の様に最短で日本海に注ぐ)
(8)桜伐採後も桜並木の復元を望む声は多く、1989(平成元)年に国の「桜づつみモデル事業」として認定を受け、桜並木の復元が進められた。復元にあたっては、桜の根が破堤を招いたとの説に配慮し、堤防の外に築いた副堤に桜が植樹されている
(9)1982(昭和57)年、水害対策の今までの歴史を記念して治水公園の整備が開始された。1989(平成元)年には桜の名勝地を甦らせる一環として往時の水門が復元され、今では加治川の桜の見所になっている。
私達が見たのは、その復元された水門であり、桜並木だった。2000本の桜でさえ壮大な眺めである。6000本もの桜が植えられていた頃の景観はどんなであったのだろう。その景観は「長堤十里、日本一」と表現されたとか。
私達はなんの知識もなく越後を訪れ、こちらに来てからネットで桜情報を調べ、幸運にもこの水門に巡り合えたのだった。(写真:加治川治水記念公園)