マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

中山道を歩く(かつての鴻巣宿=本宿→鴻巣宿→行田)

2017年01月20日 | 街道を行く

 中山道を歩いたのはもう2ヶ月以上も前のこと。弱い記憶力をフル活用しなければならない羽目になってしまった。
 旅の3日目。早朝、桶川宿をスタートした私たち一行3名は鴻巣宿手前まで来ていた。

 鴻巣は人形の町。沿道には多くに人形屋が軒を連ねていた。埼玉県の人形といえば岩槻だけと思い込んでいた私にはそれは意外な情報だった。この町は、江戸の頃から鴻巣人形を製造・販売してきた歴史を持つそうな。「ひなの里」鴻巣のどの雛人形店も華やかなで、今回の旅の中で一番色彩豊かだった。

             

 鴻巣本陣碑を通過し鴻神社にお参りを終え、繁華街を抜けると、旧中山道は高崎線と何度かの交差を繰り返し、長閑な田園地帯に入って行く。その中ほどに武蔵水路が右から左へと流れていた。水量豊かな水路。この水路、多分利根川から荒川への人工の水路だろうと予想した。帰宅後調べる予想通りで利根川の水を荒川に送るための導水路。全長14.5 km全てが開水路。東京都水道局の4割の給水エリアへ、水道水を送っているとか。治水機能も有していることから2016年に一級河川に指定されていた。(写真:右が武蔵水路。下が鴻神社)

  

 その先に英泉画鴻巣碑が建っていた。描かれた画の表題には“鴻巣吹上富士遠望”とある。富士山の左右に配置された山塊は左が丹沢で右が秩父の山々。実物風景の遠望は出来なかった。画中でジグザグに見える縄手道は今に名残を留めているそうだが、気が付かないで通り過ぎてしまった。










 吹上駅を左手に見て三度高崎線を越えると、田園風景が深まってくる。ゆったりとした流れの元荒川が現れた。元荒川へは20114月に、この川だけに生息する“ムサシトミヨ”を観察する目的で水源を訪ねたことがあった。その時は義理の妹夫妻が車で案内してくれて、目的を達したのだが、水源から下流のこの地点でも水は清く澄んでいた。右の写真に見る如く如何にも里山を流れ行く小川といった風情を眺めて心なごんだのだった。




 更に進むと荒川の堤防。この辺一帯は広大な荒川水域の一部なのだ。中山道はこの堤防の上を行く。荒川本体は見えないが、堤防下には行田の町が広がっている。脚はかなり疲れてはいたが、晴れ晴れと気分で進み行くと、「決壊の跡」碑が建っていた。
 「昭和29年9月のカスリーン台風による洪水のため熊谷市久下地先のこの地点で濁流が堤防を越えて決壊。流れ出た洪水は埼玉県北部の村を次々と襲い、利根川の決壊した濁流と合流し東京まで達し、多くの人命を奪った」と書かれていた。再び同じことが起こらない様に堤防・護岸の整備をし、そのことを忘れない為に建てられた碑だった。
  
 

 さて、当初の目的地は熊谷宿で、籠原駅までは行く予定だったが、疲労が溜まって来たこともあり、行田駅でこの日の行脚は終了。
行田から籠原まで高崎線に乗車し、宿泊「ホテル花湯の森」へ。ホテルから無料でマイクロバスで「花湯の森」へ。「花湯の森」では石野さん夫妻が待っていてくれて、石野さんを含め元同僚4人で湯に浸かり、飲食後は義理の妹まこちゃんに迎えに来てもらって、彼女の運転でホテルへ。かくして、長かった一日は終わったのでした。

 今日の一葉(「大江戸鳥瞰図」展での東京スカイツリー図)