マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

再び「藍染川通り」を歩く(その2)

2020年01月04日 | 江戸の川・東京の川

 12月25日に「藍染川西通り」と「藍染川通り」を歩いた時の様子を、前々回のブログよりも大きい地図を使って綴ることにする。



 Aの分流地点は、正確には道灌山下より100m弱西日暮里寄りの交差点「道灌山下」の地下にあった。上流から流れてきた水路はここで、不忍池方面へと続く下流と三河島方面へ向かう「排水路」に分かれた。
 A→B間の水路はトンネルになっていて暗渠の痕跡は無い。A点から出発し道灌山通りを東に進むと直ぐ左手に開成高校が現れる。更に進んで西日暮里駅下のガードを潜り「さくら水産」店を左折するとB地点。A⇔B間のトンネル内部の写真が残されている。
 『もうひとつの藍染川、のものがたり』(吉村生氏著)に右写真が載っていて、その説明によればレンガ積みとのこと。この写真は見た覚えがあった。ラジオ体操最古参の“髭ジイ”から貰った写真集『胎内都市』(白汚氏著)と全く同じだった。こちらの説明では「(これは)藍染川幹線のバイパス管。昭和36年に覆蓋され合流式下水道になった。約130mにわたる煉瓦の馬蹄形渠が残されていて、現在は増水時のバイパス管として利用されている」とあった。この写真を見た当時、どうやって撮影したか不思議に思ったものだったが特別の許可が下りたのだろうと推測してる。








 B地点に立ち後ろを振り向くと「さくら水産」の建物の下に暗渠の痕跡が見える(右写真参照)。進行方向を見ると「藍染川西通り」(下の写真)の標識が見える。「荒川5中」への通勤時にこの標識を見てこの暗渠を探り始めたのだった。
 B→C間は、高架となっている京成本線の下を真っすぐ進んだ。ほぼ一直線なので見通しが良い。私の手元には無いが大正時代の地図には開渠時には13個の橋が書かれていたそうな。ここまでが「藍染川西通り」で、ここから先は「藍染川通り」と、通りの名称が変わる。
    

 下の地図は上の地図の東隣りの地図


 C地点には新三河島駅があり、明治通りと交差している。1926(大正15)年には明治通り沿いには鉄筋コンクリートの「子(ね)の神橋」が架かっていたが、明治通り拡幅の際に廃止されたそうだ。その名残となるものが何か残されていないかこの周辺を探索したが何も見いだせなかった。

 C→D1間で下水工事が行われていた。工事名を見ると右写真のように、何と「藍染川幹線補修工事」と記されていて、この暗渠は現在では「藍染川幹線」と呼ばれる下水路になっていることを確信したのだった。








 D1地点は「尾竹橋通り」との交差点で、「花の木橋」が架かっていた。ここでもその痕跡を探したが何も見つからなかった。かっては右写真の親柱が建てられていたそうな。
 D2で都電「荒川線」を越えると、D2→Eは5年ほど前「荒川5中」へボランティア教員として働いていたころの通勤道。E地点は「町屋斎場」前でここには「子育橋」が架けられていたそうだ。Eを過ぎF近くなると懐かしい荒川5中が見えて来た。今回はここで引き返し、荒川区役所前から池袋東口行き都バスで帰路に着いた。