2月16日に北区飛鳥山博物館を訪れ「凹みが語る縄文土器」特集展を見学した折に、縄文時代に石神井川が“河川争奪”を起こしていたと解説されている展示を見た。実は2011年の2月にもここを訪れ“河川争奪”の解説文は読んだことがあり、ほぼ9年前の2011/02/27のブログに書いていた。悲しいかな、記憶力の大幅低下の為か、そのことはすっかり忘れていた。
そこで、妻の友人で地理が専門のWさんに石神井川に関する資料を問うと、コピー集が送られて来た。その出典が『対話で学ぶ 江戸東京・横浜の地形』(著:松田磐余)と知り、図書館から借りて来て、かつてブログに書いたことに思い至りながらその著作を読んだ。その内容は9年前の石神井川の争奪に関する私の理解を少し前へ進めてくれるものだった。という訳で再度この問題を取り上げてみたい。
①問題の整理
石神井川は現在、小平市花小金井南町の小金井カントリー倶楽部西側付近に源を発して、王子で武蔵野台地を下り、京浜東北線・王子駅の真下を潜り隅田川へと注いでいる。(王子からの上流沿いには桜木が植えられていて開花の頃の眺めは特に美しく、私は富士前福寿会の仲間3人と、王子から豊島園まで散策したことはあった。写真はそのとき撮影したもの)。
しかし、王子から下流の流路は、かつては今とは違って、王子で武蔵野台地を下らずに流れを南東方向へ変え、根津谷(ここでは本郷台地と上野台地の間を根津谷と呼ぶことにする)を流れていた。その流路変更を“河川争奪”と呼んでいるが、流路変更があったことはほぼ定説で、流路変更の起因とその時期に関して幾つかの説がある。②北区飛鳥山博物館に展示されている河川争奪説
石神井川の流路変更の原因には諸説あるが、飛鳥山博物館の展示は“河川争奪”説に立っている。1994年、北区教育委員会の中野守久らは石神井川の流路変更時期を特定するため現・石神井川から離れてすぐの谷田川の谷底低地にてボーリング調査を行い、その結果を
「武蔵野台地東部 (本郷台) における石神井川の流路変遷」として発表した。
展示文はその概略を分かり易く次の様に説明していた。
≪後氷降に入り、今から6千年前をピークに現在よりも海面が数mほど上昇しますが、この急激な海面変化を有楽町海進と呼んでいます。現在武蔵野台地を東西に流れ王子から低地に出る石神井川はかつては王子付近で南東に曲がり不忍池方向へ流下してきたことが以前から指摘されていました。近年、石神井川下流の流路が現在のコースをとった時期は有楽町海進最盛期頃であることが分って来ました。海進によって台地の崖ぎわが急速に後退した結果、石神井川は王子付近で崖端浸食をひきおこし河川争奪を起こして流路を変えたのです≫と。
流路が変更された原因を河川争奪とし、その時期を有楽町海進(=縄文海進)の最盛期頃(6500~6000年前)と推定していた。
流路変更の原因については、鈴木理生が『図説 江戸・東京の川と水辺の事典』で“瀬替え”説を書いているから、仮説というべきかもしれない。(次回に続く)