マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

石神井川は根津谷を流れていた(その2)

2020年03月08日 | 江戸の川・東京の川

 前回の続きです。
 ③根津谷を開析したのは旧石神井川

 『対話で学ぶ 江戸東京・横浜の地形』には次の様に書かれている。
 ≪旧石神井川は荒川が造った低地を浸食して、本郷台地と上野台地に分け、最終氷河極相期頃(=後氷期)までに深い谷(古石神井谷=根津谷)を刻み込みました。その谷底は不忍池付近では標高5mくらいまで達していました。
 その後、海面高度が上昇し、縄文海進の高海面期には旧石神井川は狭長な入江になりました。その入り江が堆積されて低地となりました。入り江には石神井川が流下していたので、低地は本来は、石神井川低地だったのですが、石神井川が飛鳥山公園北側の、現在は音無親水公園となっている流路を通って、東京低地に流れるようになりました。
 石神井川が流路変更した後、下流側に残された低地を流れたのが藍染川で、その低地を藍染川低地と呼んでいるのです。愛染川は石神井川に較べれば、非常に小さな河川で、低地を浸食することは出来ません≫と。(最下段に本書口絵2の地図を掲載)

 上記内容を、私なりに、時系列に沿って整理すると
 (1) 後氷期までには旧石神井川は本郷台地と上野台地を分ける根津谷を開析した
 (2)7000年前頃には、縄文海進により海面は上昇しつつ、根津谷には沖積層が形作られた
 (3) 王子付近では河川争奪が起こり石神井川は流れを変えた
 (4)海面が後退し低くなるにつれて、沖積層が現れ始め
 (5)その沖積層に谷田川(下流では愛染川)が流れた

 私は以前は「藍染川は旧石神井川と同じ平面を流れていた」と“平面的”に理解していたが、「藍染川の下の層を旧石神井川は流れていた」と“立体的”に理解するようになった。
 ポイントは(2)にあるように思う。著者の松田氏は“地形発達史”を紹介しつつ、「海面高度が上昇すると、上昇した海面高度に対応するように、谷底には運搬されてきた土砂が溜まり、谷底が上昇します。すなわち、堆積が進行します」と書いている。谷田川の下に古石神井谷が存在してるので、北区教育委員会が谷田川谷底をボーリング調査をした理由はそこにあったのだろう。

 ≪追記≫『対話で学ぶ・・・』には2010年12月15日放送の「ブラタモリ」で、藍染川が根津谷を浸食して谷を形成したと説明していたが、それは間違いですとも書かれていた。
 (下図で、旧石神井川は本郷台と上野台地を流れていた)