マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

簸川神社

2020年12月14日 | 東京散歩

 早朝の神社境内は清々しく気持ちがよい。一の鳥居を潜り、急な50段の階段を昇り、二の鳥居を過ぎると簸川(ひかわ)神社の本殿が見えてくる。屋根は変形の権現造りだそうな。(写真は下に。神社形式に詳しくない私は後日電話で神社にその形式を尋ねた)。この辺りは“氷川台”と呼ばれ、神社はその台地の上に鎮座している。沢筋とは標高差で15mほどだろか。その沢筋だから氷川下名付けられたそうな。階段が50段の語呂合わせからか合格階段と呼ばれているらしい。






 社伝によると、孝昭天皇三年(473年)に創建されたと伝えられる実に古い社で、八幡太郎義家が奥州下向の折参籠あったとも伝えられている。素盞嗚命(すさのおのみこと)、大己貴命(おおなむぢのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)の3神を祀り、氷川神社の末寺ともある。では何故氷川神社ではなく簸川神社なのか。
 
 
 『町会史』には概略次のように書かれている。「10代目の神主・毛利昌教氏は国立博物館の鑑定士を務めた研究者だった。彼は御祭神・稲田比売命が櫛名田比売(くしなたのひめ)と巡りあったのが出雲国・簸川であるという由来を知り、氷川という社号に疑問を持った。研究者仲間に調査を依頼し、自らも調べた結果、氷川は出雲国・簸川に由来するという説に合理性があると判断し、1920(大正9)年に社号を「簸川神社」と改めた」

 ではあるが、右写真に見るごとく節分には多くの人が列を作り、例大祭には子どもたちでいっぱいになるように、地元の人々に敬愛され、神社の呼び名は“ひかわさま”だそうな。










 一の鳥居の脇に右写真の「千川改修記念碑」が建てられている。高さは優に3mはあるだろう。千川が暗渠化されたとき、その記念に建てられた。この辺り一帯は“氷川田んぼ”とも呼ばれ、洪水が多発していたそうな。地域住民にとって暗渠化は喜ばしいことと受け止められたことだろう。その記念碑は簸川神社境内に建立されたのだ。
 今思い出したが、日曜日毎にラジオ体操に出掛ける宮下公園。その宮下の由来が公園脇の掲示板に書かれている。氷川明神(現簸川神社)下に開かれていた町屋が白山御殿の用地に召し上げられた時、その代地として現在地に移された。氷川明神下にあったので、お宮の下、宮下町と名付けられたと。
 私が想像していた以上に由緒ある、立派な神社さまでした。