マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

駒の湯温泉(秘湯へ その1)

2009年09月17日 | 秘湯へ

 日本秘湯を守る会発行の「日本の秘湯」という本があります。その第六版には北は北海道から南は鹿児島まで104の秘湯が掲載されています。版が変化するに応じて登場する温泉も若干の変化はありますが、概ね100余りの秘湯が登場します。その中で行ったことのある秘湯を数えたら34箇所ありました。多くは山旅の行き帰りに立ち寄った所。気に入って何度も通った温泉もあります。
 「守る会」が巻頭で語ります。
 『私達は、先祖から引き継いだ貴重な温泉資源と自然環境を守るために、観光的な近代化を極力さけて、古い建物、古い天然温泉をいつまでも保持するよう努力を重ねております。・・・山肌から聞こえる蝉や小鳥の声、渓流に河鹿の音、何もご馳走はできませんが、付近の山野で採れた山菜に、遠い日の故郷を思い出して、どうぞごゆるりとご静養下さい』

 この言葉に惹かれて出向き、その良さを心行くまで味わえた秘湯の一つに新潟県北魚沼郡の「駒の湯」があります。初めて訪れたのは3年前の夏。百名山最後の「越後駒ケ岳」(別名魚沼駒ケ岳)の下山路、1500mもの標高差を一気に下り、疲れ果てて辿り着いたのが「駒の湯」。
 料理は山菜が中心。夕食は朱塗りの膳に盛られて来ます。料理の一品一品に、女将とお見受けする方からの説明もつきます。特に揚げ立ての山菜天麩羅が美味でした。
 お風呂は4つほど、何れも低温で何時間でも入れます。後で聞いたところによりますと8時間も入浴した方もいたとか。川べりの露天が野趣満点。
 夕食後は談話室でコーヒーサービス。先ほど女将と見えた方は、実は現オーナーの母上。面白い話が聞けました。都立高校在学中に椎間板ヘルニアを患い、治療でこの地を訪れたときに見初められ、それが縁で結婚。以来この湯を守っていますとのこと。今は息子さんを支えて週に2.・3度、小出から応援にやって来るそうです。
 その息子さんから、私達が下山に使ったルートは遭難がよくあると聞きました。原因は1500mの標高差と、森林がサウナのような役割を演じ、激しく水分を奪い熱中症に陥り易いとの事。私もそれに近い状態になっていた事を改めて感じたのでした。宿が洪水で流された事や湯量が桁外れに豊富な事も伺い、この宿への関心が高まりました。
 百名山完登を祝い、
駆けつけてくれたWさんを含め、同行のSさんと3人で渓流の瀬音を聞きながら、深夜まで飲み明かしたのでした。


          
(駒の湯山荘 入り口)


          (駒の湯 全景)
 二度目に訪れたのは2年前の6月。囲碁仲間4人と。この時は直接宿へ。東京から鉄道を乗り継いで小出へ。小出からバスを乗り継いで、漸く宿へ。そのアクセスの長さを改めて実感したのでした。やはり長時間の入浴での温泉三昧でした。


魚貝三昧「彬」

2009年09月14日 | お気に入りの店

 不忍通りの一本裏通りに「よみせ通り」はあります。よみせ通りはその名の通り、昭和の時代には数々の”夜店”が軒を並べ、多くの見物客で賑わったと聞きます。今でもその面影が少し残りますが、訪れる人は激減したそうです。最近は”都心回帰”もあり、少しずつ訪れる人が増えているそうな。
 そのよみせ通りにマーちゃんお気に入りの多くのお店が存在します。どのお店も値段がお安く、美味しく、庶民的雰囲気が濃厚。中でも一番通い詰めているお店が魚貝三昧「彬」。西日暮里駅からだと、開成高校を右に見て300mほど進み、左折するとそこがよみせ通り。よみせ通りを進むこと400mほどを左折すれば谷中銀座ですが、左折せず更に300mほど進んだ右側にあるお店。お隣が魚屋さんで、「彬」の店主彬さんはそこの次男坊とか。


           
(入り口) 

 お隣の”実家”が魚屋さんという事もあり、特徴は新鮮な魚貝。その魚貝をベースにした定食が充実しています。和定食(840円)、刺身定食(1575円)、和弁当(1260円)などなど。
 創作料理も多く壁一面にメニューが並びます。

 初めてこのお店に足を入れたのは10年ほど前。よみせ通り散策に疲れ、ふと立ち寄った時のランチ、お刺身が新鮮で、揚げ物は素材の旨みがばっちり。以来ここのファンとなりました。ご同行頂いた方々も数多し。1階はカウンター席が10ほど。2階は15・6人が入れる和室が一つでしたが、30人以上の宴会もできる様に改築され、主として夜の酒席に利用されています。
 好楽一門の落語会があったのは、改築以前。狭い部屋に40人以上の愛好家を集めての語りでした。
 
 ランチは金・土・日の3日間のみで11時半~14時の営業。今回は9月11日(金)に買い物がてら、妻と行き、和弁当と和定食を楽しみました。二人で合計2100円。高満足度で帰って来ました。


        
(和定食:味噌汁付き)


            (和弁当:味噌汁付き)


天祖神社祭礼

2009年09月13日 | 身辺雑記
 昨日今日と、天祖神社の祭礼です。天祖神社はかって神明宮と呼ばれ、”神明町”の地名はここをゆかりとしています。富士神社との関係で言えば天祖神社はこの地域の総神社で、富士神社は言わばその支店の様な関係。14町会の神輿がここ天祖神社に集結します。


    (天祖神社入口の祭礼提灯14個)
 私の所属する富士前町のお神酒所は富士神社の境内にテントを張って設営します。一週間前に蔵出ししたお神輿や山車などもテントに一時格納し当日に備えます。


   (富士神社内の富士前町会)


    (富士前町会のお神酒所とお神輿)

 マーちゃんは祭礼を外部からではなく内部から初めて眺めます。12日の朝9時お手伝いに伺いました。『富士前』と名前の入った半纏を貸していただき、何やら嬉しくなりました。


    (町会の半纏)
 私の役割は”寸志受付”。町内会の会員等の方の志をお受けし、そのお名前を掲示します。
 隣では担ぎ手の若い衆が山車を飾り、神輿の縄を締め始めます。今まで知りませんでしたが、神輿は当日に初めて担ぎの柱を組み立てて、飾りの紐を締め上げるのでした。マーちゃんは自分の年齢を考え、担ぐのは止めて、事務の裏方です。

 初日の午前中は生憎の雨模様。午前中に天祖神社まで行かねばならない町会は雨中の行進です。人数は少ないながら、雨の中を子供達の健気な山車が行き、子供神輿が続きます。
 我が町会は午後の出番。幸いな事に雨は小降りとなり、山車・子供神輿・女性神輿の順に掛け声勇ましく、3時間の行脚に出立。


        (女性神輿帰還)

 一転、13日は絶好の祭り日和。大人神輿の出番です。親交のある団体が応援に駆けつけてくれ、総勢百人もの担ぎ手によって富士前町の神輿が出立しました。


         
(出立直前の神輿)
 
神輿の後方に見える階段が9月11日のブログ『花咲か』に登場する富士神社の23段の急な階段です。

『花咲か』(岩崎京子著)を読む

2009年09月11日 | 読書

 野間児童文芸賞受賞作品の岩崎京子著『花咲か』ー江戸の植木職人ー(石風社)を読みました。
 妻の友人のTさんが「お宅近辺の地名が沢山出てくる物語よ」と貸して下さった本、妻が読了後、同じような事を語って、私に又貸しです。

 著者の岩崎京子さんは児童文学の世界では有名な方の様ですが、私は全く知りませんでした。巻末の解説からの抜書きですが、『岩崎さんは、1922年(大正11年)に東京に生まれ、東京で育った生粋の東京人で、昭和34年短編「鷺」で児童文学協会新人賞を受賞。いまや日本の現代児童文学を代表する作家の一人となりましたが、とりわけ野間児童文芸賞と芸術選奨文部大臣賞を受けた「鯉のいる村」は、動物を素材としに、主としてそのその動物にかかわる人間が描かれている短編集ですが、とくに、それらの人間のなかでも、一種職人気質とでもいえる性格の描写は見事なもので、それはこの「花咲か」にもさらに発展した形でひきつがれていますが・・・
』とあります。

 その「花咲か」、一口で言えば、江戸時代に”お富士さん”(今の駒込富士神社。マーちゃんが毎日通うラジオ体操会場)付近の植木屋に住み込んだ少年が”ソメイヨシノ”の桜を江戸中に咲かせるまでの物語です。
 物語の”筋”は単純ですが、構成はやや複雑です。本物語の主人公の常八少年が書いた覚書を基に、著者がその覚書に書かれている場面や生活を再現します。更にそこで書かれた地名や社会現象などを、現代の視点に立って、例えば「江戸名所花暦」や「駒込富士神社周辺之図説」などで検証するという構成を取っています。著者は江戸時代と現代の二つの視点を持ち、自由自在に時代を行き来します。「江戸重ね地図」の様に、時代をいとも簡単に飛び越えて物語を綴ります。

 植木屋源吉に弟子入りした常八の生活描写から物語りは始まります。植木屋への世界に入って一人前の職人として成長する過程が物語りの中心ですが、常八はじめ親方・先輩達の職人気質独特の気風・性格が丹念に描かれていきます。
 物語は後半で、キク造りが高じて見世物の様な菊人形づくりが流行り、廃れる有様が語られます。やや成人した常八青年の心は何時しか桜に移っていきます。伊豆の山から持ってきた苗から育てたサクラ、著者はこれをソメイヨシノの”源流”と見立て、常八の丹精によって作られた多くの苗、その苗木で江戸中をソメイサクラの花にするという望みを、常八が実行に移しはじめるところで物語は終わります。常八48歳の時です。

 今朝5時に起床、後半部分が特に面白く一気に読み終わりました。妻の友人が語ったように駒込神社近辺の地名が沢山登場して来る部分がとりわけ面白い。常八の住まいは駒込神社裏の植木屋。名主屋敷や妙義坂、神明神社なども登場します。マーちゃんが散歩する個所とも重なり面白さがいや増します。今朝の散歩で名主屋敷を訪ねると、高木と書かれた小さな表札を発見、未だ高木家が続いている事を知りました。
 更に興味を抱いたのは次の件(くだり)です。
 『文化10年、この正月には駒込の名主、富士神社の別当の住職、それから富士講の人びとの肝入りで、江戸堺町の中村座から、松本幸四郎、岩井半四郎、市川海老蔵、中村芝翫などの一行を招いて、お富士さんの境内で歌舞伎狂言をもようした。・・・

 『お富士さんは、古墳の上に、岩や土をもりあげた、高さ15メートルほどの人造富士である。いまは23段の急な石段がついていて・・・』毎日この急な石段の段数を数えながら上るマーちゃんは、そうだ間違いないと頷いたのでした。


          (染井霊園近辺にある石の塔)
 
 


社会福祉協議会

2009年09月09日 | 身辺雑記

 最近、「社会福祉協議会」の文字をよく目にします。
 最初に気が付いたのは「文京区社会福祉協議会」主催の「成年後見と遺言」の学習会。街角の掲示板で見ました。続いて、私が通うパソコンスクールも「豊島区社会福祉協議会」後援とパンフレットに書かれていました。三日前の「文高連」(文京区高齢者連合会の略)の「はぜ天麩羅を味わう会」にも後援者として名を連ねていました。
 一番驚かされたのは「就学援助」(正確には”チャレンジ支援貸付事業”です。これも掲示板からの情報です。大学入学前に通った塾の学習費用や入学試験代は、入学後「入学証明書」の提出により、返済が免除されるとの事。一定の条件はあるのですが、特にその様な費用の捻出が困難な低所得者やその家族にとっては耳寄りな話。電話でその仕組みを聞いたところ、「社会福祉協議会」は東京都のしかるべき部署への取次ぎ業務を負っているとの事でした。
 この組織、やっている事から推測するに「強い者の味方」ではなく「弱い者の味方」らしく、い
かなるものか、財政的には何処が負担しているのか等を知りたくてインターネットで調べた上、昨日、直接訪ねて見ました。都営地下鉄「春日駅」下車1分のところにある「文京区民センター」4階に「社会福祉法人 文京区社会福祉協議会」の看板が掲げられ、14・5名の、主として女性の方々が働いていました。お昼休み直前でしたので、詳しい事は聞かずに、パンフレットと小冊子を頂いて帰ってきました。
 
 そのパンフレットには次のように書かれています。
文京区社会福祉協議会は 地域住民の方を中心に、民生・児童、町会、自治会、社会福祉関係者の参加・協力を得て、区民の高齢者、障害者の方々の支援事業をはじめ、地域福祉向上と充実を推進します。
 社会福祉協議会は、社会福祉法に基づき、全国・都道府県・区市町村のそれぞれに組織されている民間団体です。
 文京区社会福祉協議会は1952年に設立、1963年に社会福祉法人の認可を受けました。
 とあり、高齢者や障害者の方々への支援事業をその中心業務としている事がわかります。
 具体的活動として次の事柄が書かれていました。
 ①高齢者等が安心して在宅生活で暮らせるように家事援助を提供する「
いきいきサービス」
 ②子供の保育所等の送り迎えなどの子育てを支えあう「ファミリー・サポ  -ト・センター事業」
 ③就職に役立つ日常的技能の習得支援や大学受験を支援する為の貸  付
 ④障害者等の対する日常的金銭管理サービス
  など。
           

 問題は財政基盤です。頂いてきた小冊子からは読み取れないので、直接電話で聞いてみました。文京区からの財政的援助が2億円程度、後は寄付金に頼っているとの事。ここが例えば「文京区の天下り団体」なのかなどは分かりませんが、私の知っている、信頼できる区議会議員の方が理事に名を連ねている事から推測し、その点は心配ないと思います。
 文京区以外の地方自治体にも「社会福祉協議会」は存在し、やはり同じような財政により成り立っているのではないでしょうか。
 高齢者がぶつかる様々な”困った事柄”の相談に乗ったり、一歩進んだ積極的な活動の数々、もっと知られて良い様に思います。折りしも昨日「文京区報」と同時に「社会福祉協議会」の「文社協だより」も配布されました。じっくり読みたいと思います。