順風満帆に進んできた、生産者グループと消費者グループの関係。生産者の方々の上に大きな不幸が襲い掛りました。生産者グループの大黒柱片平さんの妻のイチ子さんが、病死されたのです。忙しい農作業に加えて、生産者グループとの関係の事務方を一手に引き受けていたイチ子さんの死は、夫潤一さんだけではなく、生産者グループにとっても消費者グループにとっても、大きなショックであり、大打撃でした。私達が援農に出向くと、食事や寝る場所など、何かと面倒見てくださったのもイチ子さんでした。
更には、片平さんの片腕とも言うべき舟山さん(片平さんの実弟で養子に出られていました)も癌で亡くなられ、追い討ちを掛ける様に、片平さん自身も癌で亡くなられてしまったのです。
自己の健康管理がどのように行われていたか、外部からは知るよしもありませんが、私には”戦死”に思えてなりませんでした。有機農法を追い求めて来た故の、忙しすぎる日々から来る疲れ、健康診断をしっかり受ける時間的余裕も無いほどの忙しさが原因ではと思えてしかたありませんでした。
彼が亡くなられたことを知らずに、片平さん個人への用事で自宅へ電話した折り、片平さんのお父様が電話に出られ「潤一、1週間前に冥土に旅立ちました」「 」言葉を失いました。二人の息子さんと嫁さんに先立たれたお父様の哀切極まりない言葉。悲しみをこらえながらの言葉が堪えました。
生産者グループの中心メンバー3人を失い、生産そのものもが危ぶまれてきました。交流会は出来なくなりました。消費者側より生産者側がいかに困難な状況を抱えているかをも浮き彫りにした成り行きでした。
そんな中で、生産者グループの一員だった、60歳を越えられたせ鈴木久二郎さんが、片平さんの後を引き継いでくれました。お陰で生産者グループと消費者グループの関係は、生産規模を縮小するものの、今までどおり続く事になりました。
2・3横道の話を付け加えます。片平さんの息子さんは、片平さんが創設した「ハム・ソーセイジ」工場を運営しています。(片平さん父子はテレビにも登場し、ソーセイジ部門で優勝していました)
生産者グループと消費者グループの接着剤の役目を果たされたのは、大学の教員で、有機農業運動を研究し、実践されているMさん。「有機農業運動」関係の著作を数点発表されています。そのMさんと大学以来の友人が12月18日のブログに登場したTさん。元同僚Tさんに勧められて、私達は「文京鍬の会」の会員になりました。
私達は今も「鍬の会」会員です。大豆購入を切っ掛けに「鍬の会」会員になることをお勧めし、数名の方に会員になって頂きました。年会費1000円は、生産者グループとの諸連絡と,、生産者側に何かご不幸が生じた場合に使います。大変な事務を一身に担っておられるのがKさんです。
我が家ではお米も取っています。箱入り10kgの玄米が届くと、そのまま保存しておいて、食する日に精米機に掛けて精米し、直ぐに炊き上げます。美味しく炊き上げるのは私の得意技の一つでした(過去形です)。昨年10月から私が勤務に出ると、妻の出番となり、「一流料理店のご飯の炊き方」を真似し始め、これが実に美味しくて私の出番はなくなりました。
折りしも2月初旬に送られてきた「秘伝豆」と米麹の中に「菜々穂便り15号」が入っていました。厳しい寒さと雪の中、農作業の準備に追われる鈴木さんの日常が綴られていました。お歳を召されながら、日々励まれ、頑張っている方がいる、その姿を想像しますと、自然と、私もしっかりしなくてはという気持ちになります。「菜々穂便り」は私に取って何よりもの励ましとなっています。
2月11日のブログに登場した大豆「秘伝豆」の生産者、鈴木久二郎さんの「菜々穂農場」は山形県高畠町にあります。「菜々穂農場」とは実は生産者グループの名前で、今では鈴木久二郎さんが担当していますが、創始者は片平潤一さんです。
片平さん、今から30数年前に「有機農法」を唱え、実践した方です。少し前まで「有機農業」がブームでした。今も「有機野菜」や「無農薬米」には人気があります。しかし30年前「有機農業」は冷ややかな目で見られていました。それを唱えるものは迫害さえ受けた歴史があります。除草剤などを、空中散布すれば事たりる作業に反対したのです。空中散布を止めるとなれば、各農家は、手作業で田んぼを荒らす害虫の駆除を行わなくてはならなくなり、唯でさえ忙しい農家の作業量は一段と増すのです。農家の方から見ればとんでもない主張に思えた事でしょう。
しかし、片平さんから見れば、農薬が空中散布されれば、米だけでなく、他の農作物の安全性が大きく侵されると考えたのです。自らの農場では無農薬農法や有機農法を実践しつつ、高畠町当局に「空中散布」を止めるよう陳情し続けました。剛くて芯の強い片平さんに直接文句を言いに来る人はいなかったそうですが、学校で子供達は激しく苛められた、と後年片平さんは語っています。
片平さんの考えに同調する方も現れる一方、これを支援しようと消費者のグループも出来始めます。時代の変化とともに「有機野菜」等が注目され始めた時期でもあります。片平さんたちは生産者グループ「菜々穂農場」を立ち上げ、消費者グループも、東京や横浜を中心に何箇所かで発足します。後年、私が所属する事になったのは「文京鍬の会」。生産者グループは、消費者グループから生産希望品の数量を纏めて送付して貰い、農作物の生産量を調整し、農作業計画を立てます。消費者グループは、大変な農作業の”援農”に出かけます。このようにして、両グループは密接に結びついていったのです。1980年代、昭和で言えば50年代の後半、私も何度か高畠町まで足を運び、田圃に入り田植えや除草のお手伝いをした事もありました。温泉の案内をして頂いこともありました。
秋の終わりには、品川にあった「国民生活センター」で、生産者グループと消費者グループの交流会「収穫感謝祭」が行われ、多くの消費者グループが参加し、100人を越える集まりになった年もありました。その年生産されたものを美味しく、楽しく味わったのでした。餅つきが行われ、トン汁が振る舞われ、手作りの田舎料理がテーブルを彩りました。高畠で生産されたワインや日本酒も持ち込まれ、交流会は大変な盛り上がりを見せました。
しかし、順風満帆に進んできた、生産者と消費者の結びつきに思わぬ悲劇が襲いかかります。(この続きは次会ブログへ)
(ニューポテトロ2) 2月14日の日曜日のお昼に、六義園に出掛ける前、私が作った「焼き芋」を昼食の一部にしました。勿論、庭で、枯れ葉を集めての焼き芋ではありません。そもそもマンション住まいの身に、庭はありません。妻が購買した東波セラミック社の『ニューポテトロ2』なる調理鍋、遠赤外線ニューセラミック製で、別名「空炊き調理鍋」。ガスコンロを使用して空炊き調理を行う事が出来ます。
私は「シャープペンオタク」、妻は「鍋オタク」ですが、今回は”オタク”的発想からでは無く、野菜を出来るだけ柔らかくして食したいとの身体的欲求が動機にあった様で、料理メニューを見ると、「焼き芋、ジャガイモ」「とうもろこし」「焼き魚」「焼きなす」「さざえのつぼ焼き」「ピザ」等々が挙がっています。妻は早速「焼き芋」を調理、私に毒見をさせてくれました。
(右は加熱中の鍋)
(網の上にサツマイモを乗せました) 早速、味わってみました。ほくほくと仕上がっていて大変美味しいのです。これは私が調理するには”持ってこい”のものと考え、妻から習いやってみました。まずはサツマイモの両サイドの端を切り落とし、2つに切り分けます。続いて鍋を5分ほど熱し、網をかいます。そこへ、2つに切ったサツマイモを入れ(勿論無水状態で)20分加熱。
サツマイモをヒックリ返し、更に20分加熱して終了です。ただ今回のサツマイモかなり大きかったので、楊枝を刺して硬さを見ると、やや硬いのでもう5分加熱しました。簡単な調理方法で(調理と呼べないかも知れませんが・・・)、美味しく仕上がりました。
他の野菜や、魚調理にも挑戦する積りです。
(加熱45分ごのサツマイモ)
(皿に乗せ切りました)
(六義園正門) 昨日(2月14日)、『六義園と和歌浦』と題し、「柳沢吉保が六義園に和歌浦をなぜ写したか」とのサブタイトルのもと、「和歌山市立博物館長 寺西貞弘」さんの講演が、六義園内「心泉亭」で開催されました。寺西さんは、わざわざ和歌山市からのお越し。
(右は泉亭への案内板)
この講演がある事は「街角掲示板」で知りました。参加可能者は20名、場所は六義園内の茶室「心泉亭」で費用は無料。是非参加したいと、看板を見て即、妻ともども六義園に出掛け申し込みをすると、既に15名ほどの参加希望者の一覧表があり、滑り込みセーフで参加許可書を頂きました。ラッキーでした。
(心泉亭を外から望む) この「心泉亭」、かつてミニクラス会で利用した事があります。この5月22日(土)には妻が、会食した後『源氏物語』のお話をする予定で借りてもいます。この和室内から六義園の池が見渡せ、実に日本的情緒を堪能できるお部屋で、6ヵ月前から、どなたでも予約可能です。ただし禁酒です。15時少し前に入室すると既に10名ほどの方の姿が。
講演は3時丁度に度始まりました。既に資料は用意されていますが、パソコンソフト「Power Point」をプロジェクターに繋いで、視覚的にも分かりやすく工夫された”お授業”です。実に洒脱な先生で、脱線話も多く、やや難しい話も聞いていて飽きません。
(右は茶室からも望める池)
突然に、このブログをお読みの方へ質問ですが「もしこの1年間に、日本のどこかへ旅行して良いと言われたら、あなたは何処を選びますか」。漠然とした質問なのでいろいろな答え考えられます。箱根へ行きたい・九州の黒川温泉が良い・中島みゆきの公演を聴きに行きたい・沖縄に行ってみたい等々色々な答えが予想されます。
一方、平安時代の貴族達にとって、行きたい場所で一番人気であったのが「和歌浦」だったそうです。温暖な浦で、和歌に詠まれている事も影響があった事でしょうし、何よりも奈良・平安の時代、天皇の行幸が3回もあった権威ある場所が「和歌浦」。その人気の和歌浦、貴族たちにとって、天皇行幸のお伴をする以外見学の機会がやってきません。行けなければ行けないほど「行きたい」と思うのが人の常で、口実を作っては行ったそうです。
話は飛んで秀吉の時代、紀州に攻め入った秀吉は和歌浦に滞在する事 により和歌浦を良く知っている公家達を安心させます。(彼らは秀吉と緊張関係にある家康と結んで、不穏な行動をしかねなかったそうです)
更に話は更に飛んで江戸時代、将軍綱吉の頃、綱吉から絶対の信頼を勝ち得た吉保は、元禄15年、ここ六義園を完成させます。とまで話が進んだところで、既に16時30分、予定の時刻が到来してしまいました。なぜ吉保が六義園内に「和歌浦」を作ったかは、講演の最初、吉保が六義園造成の知恵袋とした北村季吟の進言と説明していました。和歌浦にある和歌の神様「玉津嶋神社」の、大阪での神主でもあった学者です。おそらく権力を握った吉保が、文化的権威をもつけるため、「和歌浦」を作った、これが私の推測です。
司会に登場した方の名札を見て「アッ!」と思いました。クラスメイトBさんから話を聞いていた「中山さん」でした。Bさんの友人の娘さんで、六義園勤務の所長さん。ご挨拶をしますと、即座に私の名をあげ「六義園をブログに登場させて頂きありがとうございます」と。司会の様子からも窺えましたが、大変感じの良いお方、5月に妻がここを借りる事までご存知でした。
帰宅を急がず、咲き出した梅の香りを楽しんで六義園を後にしました。
(冬枯れの六義)
(梅は3分ほど)
5ヵ月ほど前、「法務研修館」なるところから『黒田塾 相続実務・完成講座』のパンフレットが送られてきました。その中に法務研修館・館長黒田氏の『夢を実現する! 本物の行政書士とは?』と題する小冊子が挟まれていました。
高校卒業後酒屋さんの店員となり、その後17年間の郵便局勤務を経て、38歳で行政書士となった黒田広史さん、行政書士歴22年になります。行政書士となった当時は「会社設立」や「建設業等の許認可」等の業務を中心にし仕事をしていたそうですが、これらの業務が自分には合わないと分かってきた3年目に大きな転機が訪れます。8千万円の資産整理の依頼です。相続を扱うのは初めて、なにも分からないまま、同期の行政書士と二人、学習しつつの仕事完成。そのときの報酬は150万円だったそうです。以後「相続」「遺言」の業務に専念し、今までに引き受けた相続案件は140件。不成功に終わったのは1件のみ。”139勝1敗”と表現していました。
そこに至るまでの苦心談と成功の秘訣がぎっしりと書き込まれた20ページからなる冊子。一気に読みました。その実務を一から講義してくれるとのこの研修会、気持が動きました。しかしお値段を見て吃驚、298000円とありました。私には高すぎる価格です。残念ならこの冊子ファイルにしまい込みました。
行政書士を開業して1年3カ月、「車庫証明」の業務が1件、文京区での「無料相談会」に参加して小額の報酬を頂きましたが、全く”仕事”になっていません。はっきり行って「行動不足」「宣伝・営業不足」です。その底流に流れるのは、実務の知識不足から来る引っ込み事案。腰が引けているのです。妻の皮肉は身に応えています。自己分析だけは出来ていました。
事態が少し変化し始めました。10月から勤務の講師の報酬、しっかり貯金をしていました。黒田塾が視野に入って来たのです。2月13日に「入塾説明会」がある事を知り、講師黒田さんの模擬講義を聞いてから判断しようと考えました。そこに展示されている資料も見たいとも考えました。そこで昨日、渋谷にある「伊藤塾」内での「法務研修館」の説明会に出掛けたのです。
冊子から感じていた様に、黒田先生の温かそうで穏やかな人柄や、分かりやすい講義、実務に直結する書類群、何もかも素晴らしいものでした。『行政書士は人と人を繋ぐ掛け橋』そうでありたいと、胸にストンと落ちる話もあり、迷うことなく入塾を決心しました。
私は「民法」学習の中で、特に「親族・相続」に興味を覚えました。この分野の学習はとても楽しく、面白かったのです。黒田さんが語った様に「専門分野を持て!」の言葉に従えば、自分の好みに合った「遺言」「相続」を専門にしよう、その為に集中して学習しようと決心し、昨夜「入塾」申し込みのFAXを送信しました。
4月3日(土)から7月24日(土)までの毎週土曜日、14時~16時30分までの15回の講義。ロングランです。この間やむを得ず欠席したものに補講が用意されていますが、出来れば欠席したくないです。ただ4月16日~17日には、既に甲州への旅行が計画されています。困ったなと、細かく日程表を見ると、なんと4月17日は何故か講義がないのです。まるで私の様子を見定めていたかの様な日程。これは”天の恵み”かもしれないと、勝手に自分に都合の良い方に解釈し、迷うことなく「入塾」を決めたのでした。
弁護士や税理士の様に業務に入る事前に学ぶ機会の少ない行政書士、この様な学習の場は必要な事と思えます。受験へ投資しただけでは、なかなか仕事になりません。”行政書士では食えない”と言われるのも尤です。再度の投資がどの様な結果となるかは分かりませんが、ただ金銭面の事だけではなく、再度学びの場に身を置ける、喜びと緊張感を感じ始め、4月3日を心待ちしています。