マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

『黒部と槍』ー冠松五郎と穂刈三寿雄ー展へ

2014年04月17日 | 映画・美術・芝居・落語

  昨日は第3水曜日。都の、美術関係館は65歳以上無料の日。午前中に恵比寿にある東京都写真美術館へ、午後は江戸東京博物館へと、ハシゴして来た。
 先月、妹夫妻と都写真美術館で「101年目のロバート・キャバ」展を観た折、「黒部と槍」展が、5月6日まで開催されて
いる事を知り、抑えがたいものがあり、11時から開催予定の「文高連総会」への遅刻を承知しつつ、富士前福寿会会長には‘都合で遅れます’と断って出かけたのだった。
 シルバーパス利用を心掛けているので、千石→目黒間は三田線を利用し、目黒からJR山手線沿いを歩いた。この辺りは中学時代に自宅から遠出して遊びに来た場所。「日の丸」自動車教習場など懐かしい場所を見ながら行くと、徒歩で15分、10時丁度に到着した。

 冠松五郎は、1918(大正7)年、立山から黒部本流に足を踏み入れたのを皮切りに、秘境黒部渓谷を舞台に数々のパイオニア・ワークを果たし、多くの写真と紀行を残し「黒部の主」の異名をとった。秘境十字峡を発見したのが1925(大正14)年。谷は頂上に上るがための登路だという常識を覆し、谷自体の魅力を掘り下げて表現したのだ。
 一方、穂刈三寿雄は、1914(大正3)年、初めて槍ヶ岳登山。1926(大正15)年に槍ヶ岳の肩に登山小屋を建て、以来数十年間、夏になるとそこで生活し、山行にはカメラを携えて北アルプスを中心に撮影し、大正末期の積雪期の作品など先駆的な業績を数多く残したとある。
 二人併せて137葉もの写真(モノクロ)が展示されていた。

 私が登った、穂高・槍・剣などの山々も展示され、懐かしさから見入った写真も幾つかあったが、山や谷に入り、写真撮影をして来た二人の境遇への羨望の思いを抱きながら、写真を見続けた。取分け、黒部の本流や支流が私に迫ってきた。右の写真を見て頂きたい。その谷の深さよ。嶮しさよ。選ばれ、鍛錬を重ねたもののみが見ることが出来る風景がそこにはあった。(右写真:剣の大滝を囲む大岩壁)

 私は黒部渓谷には憧れを抱きながら、雲の平を訪れた際、結局その源流の地を踏んだだけだった。比較的遡行しやすいと云われている上廊下をも、もはや歩むことはないだろう。
 この数年歩いてきた、常念岳や、燕岳から槍へと続く山々は懐かしく観ることが出来た。現在と変わらぬ、大正期の山々がそこにはあった。積雪期の峰が一際美しい。珍しく図録を購入してきて眺めている。(以下図録より)


    (柳又沢、魚止の滝)


  (「平」の下流。中の谷付近からの眺め)

 
(好きな山 黒部五郎岳)      (早春の槍ヶ岳。燕岳より)

 
(夏の槍ヶ岳 手前は銀座縦走路)   (夏の槍ヶ岳と天狗池、氷河公園より)

 


80歳を超えられてもお元気な方へのインタビュー

2014年04月15日 | 学校

 私が幹事を務める「都高退教」のニュースの記事の一つに『80歳を超えられてもお元気な会員へのインタビー』がある。この様な記事を載せることの提案者の一人の私は、実際にインタビューもさせて頂いた。その記事はニュースとして既に発行もされているが、読まれた方は会員の方に限定されている。80歳を過ぎられても、こんなにもお元気に活躍されている方がいることを知ってもらおうと、その時の記事を縮小し、定年後に焦点を合わせて綴り直します。

 『幡野憲正さんへのインタビュー
 「80歳を超えられてもお元気な会員へのインタビュー」第2弾をお届けします。
 今回、お話を伺うのは、かつて都高教書記長・副委員長などを歴任された、幡野憲正さんです。聞き手は幹事の二人。昨年の定期総会終了後の懇親会の席上「NPO法人を立ち上げて、高齢の方々にパソコンを教えています」との話を伺ったのがきっかけでした。
 80歳は超えられているはずだと思いつつ、まず年齢を。「今、87歳で、大正15年生まれです」に吃驚。昭和一桁生まれではありませんでした。5歳以上はお若く見え、非常にお元気な様子です。

 定年退職後の嘱託時代は、本務以外に、熟練していたパソコンのスキルを活かして友人の会社の製品(貯水槽)の構造計算をプログラム化する仕事を手伝っていました。
 2001年に「IT講習」が実施されたときに、知人のパソコン教室経営者から懇願され講師を引き受けます。その後、その受講者の中から、パソコン技能を充分に習得した人を募り、「PCクラブ」という名で講習を継続。さらに、2002年にこの人たちを母体にした「NPO法人IT支援センター」を組織。
 ところが、講習の拠点たるパソコン教室が倒産してしまい、理事長の役を引き受けると、会の人たちから、各自1万円を出資するから講習を続けたいとの要望があり、足立区の「生涯学習センター」の「コンピューター研修室」を借りて講習を続け、1年で赤字解消。出資金を返還したとのこと。この時の預り金返還のメモまで残されていることに感心すると同時に、特に印象に残ったことは、彼が講師を引き受けて以降退会者が殆どいなくなったということです。それも、大学時代にアルバイトで学校へ通えない日々に、学校へ行かないでも学ぶ方法を身に付け、これを講師として実践したからとの話を興味津々と聞きました。
 2005年9月には、韓国からパソコン団体「銀色の巣」24名の訪日を受けての交流も成功裏に終了。(詳しくはホームページhttp://www.npo-it.com/をご覧ください) 
 現在はパソコンを借りての講習ではなく、受講者各自がノートパソコンを持参しての講習に切り替えています。費用が安く済み、予習・復習がはかどるだけでなく、その場でパソコンのトラブルを直したり、フリーソフトをインストール出来るので、生徒さんに大変喜ばれているそうです。
 今は、プロジェクターを購入し、各自のパソコンに接続しての講習を実施しています。この方法は数あるパソコン教室でも実にユニークな、斬新な方法と思いながら話を聞きました。定時制で教えていた時の方式を採用し、テキストも市販のものではなく手作り教材を使用。精選した薄い教材は持ち運びも簡単で、復習にも最適とのことです。

 ここまでの話を伺って思うことは、そのエネルギッシュな行動力と強い精神力です。NPO法人設立時が75歳。普通(?)の人ならば、隠居気分か老い支度を考える年齢。幡野さんはその年齢から新たなるものに挑んだのです。
 いやはや、大変な行動力です。その幡野さんが我々後輩へ向けてのアドバイスをも語ってくれました。組織の大切さと、長い年月を掛けて培った専門を、次の世代に伝える“恩返し”です。都高退教が中心となり、NPO法人を立ち上げ、落ちこぼれの子供たちを対象とする、学習組織を作ったらどうかとの提案もありました。 
 都高退教に関係 する著作・編集書には『伝えたい戦争の体験』『私にとっての戦後』などがあります。

 インタビューは途中から“ランチョン”に移動。そこで元気の源をお尋ねしました。「働き続けることです」との即答が返ってきました。働くこと→お元気→働くこと の好循環を築きあげられてこられたのです。
 思えば敗戦後の混乱期から高度経済成長を経て今日まで、70年近く延々と働き続けてこられた幡野さんならではの言葉です。隠居気分漂う筆者には身の引き締まるインタビューでした。』


『観音の里の祈りとくらし』展を観る

2014年04月13日 | 映画・美術・芝居・落語

 観ていると心が和んでくるホトケさまたちだった。「ようこそいらっしゃいました」と出迎えてくれているような10数体もの、一同に会した観音さまたち。それに導かれるように、ここ東京芸大美術館を訪れた実に多くのヒトたち。

 このところ上野へはよく出かける。その時眼にした本展示ポスターの副題ー琵琶湖・長浜のホトケたちーを見て、何かが匂った。長浜にはついては、戦国の世に、羽柴秀吉居城の城下町だったこと程度の知識しか持ち合わせていないが、その観音の里におわしますホトケたちが誘ってくれたと思いたい。4月9日(水)のことである。

 

 


 10数年前、大津でレンタカーを借りて琵琶湖を北上し、湖北地方の十一面観音さまを蔵する2・3の寺を訪れたことがあった。どのお寺も小さく、ひそやかに存在していた。京都のお寺とは大きく違う。本展示は、その謎解きもしてくれた。
 『この地方は幾多の戦乱や災害に見舞われましたが、地域住民の手によって観音さまは難を逃れ、今日まで大切に守り継がれてきました。大きな寺社に守られることなく、地域の暮らしに根付き、そこに住む人々の信仰や生活、人生、地域の風土などと深く結び付きながら、今なおひそやかに守り継がれています』とある。
 又『これらを生み出した大規模な寺院の多くは中世の頃には廃絶したものと見られ、その後は「惣村」と呼ばれる自治組織を基礎に、高い自治能力をそなえた住民たちによって観音が守り伝えられてきました』ともある。
 多くの観音がつくられた背景として、己高山(こだかみやま)を中心とした山岳信仰についても語られていた。

 慈愛にみちた観音さまをじっくりと拝観した。なかでも善隆寺蔵の、少年の雰囲気ある十一面観音立像がひときわ美しく思える。馬頭観音・千手観音・聖観音など18体の仏たちに囲まれての拝観。ふと、報道陣が多いことに気が付いた。その中心に滋賀県知事嘉田由紀子氏がいた。前回の衆議院総選挙以来あまり姿を見なくなったが、熱心に説明に耳を傾け、質問をする姿があった。2階レストランで食事を摂るときにも知事は私の真後ろでの食事という偶然。今後を期待したい政治家のひとり。(写真:重要文化財の善隆寺蔵の十一面観音)


駒込富士神社の昨日・今日

2014年04月11日 | 町内会

 昨日の4月10日(木)、「こまじいのうち」で『富士神社にまつわるお話』会が開催された。講師は本駒込2丁目在住の平山真理子さん。埼玉で教職。定年後、奈良大学通信講座で学芸員資格を取得。卒論のテーマは「富士講」。普段私たちが目にする、神社内の碑文・掛額・石像に関する具体的な話と、富士講一般が語られた。聴きに来た方は20名の多数に上った。興味ある沢山の事柄が話題に登場したが、今後整理したうえでブログには書きたい。ただ一点だけ触れれば、江戸時代に盛んだった富士講。今の文京区だけでも六十余の講があったが、現存する唯一の、駒込富士神社の講は”丸瀧”と呼ばれ、そのリーダーに任じられたのが杉本精孝さん。そのお孫さんは、今、私と同じく富士前福寿会の会員にして、輪投げチームの一員。今朝もラジオ体操で顔を合わせた。富士講が身近に感じられるお話会だった。
 富士講の衰退も語られたが、富士神社で行われるラジオ体操は興隆を見せている。気候が良くなったせいもあるが、今日の参加者は43名。境内のあちこちに人が散っている。(写真:座して熱心に語る平山さん)

 しかし、某月某日、富士神社社務所に泥棒が入ったらしく、境内にはパトカーが停まり、数名の警察官の姿が見られた。盗まれたものは鍵束。しかし、お賽銭箱は3重の鍵でガードされているため被害はなかったらしい。

 某月某日。近隣からラジオ体操時のラジオの音がウルサイとの苦情が入る。そこで音量を小さくし、音が外へ漏れ難い場所にラジオカセを移した。ラジオを囲む輪も今までより小さくなった。それに伴い私も、今までの”外野席”から”内野席”要するにコアの位置に移動した。ラジオの音はよく聞こえ、参加者の様子もよく見える。
 今日から、神社社殿へと続く階段上りを本格化した。5月上旬には一泊の山行が予定されている。それに備えてのトレーニング開始。30周の運動で軽く汗をかき、気持ちが良い。(写真:ラジカセはこの位置に移動)







 


石見神楽を観る

2014年04月09日 | 映画・美術・芝居・落語

 4月7日(月)、文京シビック小ホールで石見神楽を観てきた。津和野町の東京事務所が文京区内に開設されたことを記念しての公演で、「400名無料ご招待」に応募し、当選してのご褒美だった。驚いたことに、入場の際に袋入りのお土産が配布された。中身は津和野町地酒の酒粕を用いたカトルカールというケーキと袋入りの豆茶。グーンと津和野町への評価が上がる。単純だが的確な誘致作戦だ。
 津和野町と文京区の”仲人”は森鴎外。生誕が津和野で終焉が文京区。一昨年、両者は相互協力の”契り”を結んだのだ。





 開演に先立ち挨拶が3つ。津和野町観光協会会長・津和野町長・文京区長と続く。会長の話から岩見神樂の謂れと事務所の位置を知る。町長は、文京区からの義捐金への感謝を述べ、津和野に流れる高津川は清流度日本一と語った。区長の話が面白かった。主義主張はさておき、この人話が上手い。津和野と文京の仲人が森鴎外のみならず、廃藩置県にあった津和野藩城主亀井氏の屋敷が文京区千石にあるとの話もあった。この話を聞いて、昨日の朝散歩でその屋敷跡を探してみたが見いだせなかった。(写真:津和野のユルキャラのつわみん)




 さて石見神楽。上演された演目は3つ。「鍾馗」「恵比寿」「大蛇」。石見神楽はどれも面白いし、観て実に楽しい。今回の演目は3本の内容が異るという工夫がなされていた。
 「鐘馗」は鐘馗が厄神を退治する物語。鐘馗は右手に宝剣、左手に輪を持って厄神と激闘を演じる。その輪こそ「茅の輪」(2013/7/4のブログ)なのだ。演じ終わって鐘馗を演じた役者は面を取ると、きりりとした面持ちが現れる。拍手が大きくなった瞬間。
 「恵比寿」は恵比寿さまが海辺で釣りを楽しむ様子を舞ったもの。撒き餌をまく場面では客席に向かって飴を投げるのだが、残念ながら私たちの席まで届かない。コミカルな動が笑いを誘う。ここでも面を取ると、恵比寿とは正反対(?)の表情の顔が現れ、場内大爆笑。(写真:鐘馗の持つ茅の輪)

 真打が「八岐の大蛇退治」。何故か八頭ではなく六頭の大蛇がもの凄い絡みを演じたり、すっくと立ち上がったり、蜷局(とぐろ)を巻いたりする。その演技は、熟練して始めて演じられると思える見事さ。須佐之男命が剣で大蛇の頭部を切り取る度ごとに拍車が沸き起こる。メデタシメデタシの後面を取ると、私には、鐘馗を演じた役者と顔が現れたように見えた。

 今回の神楽で気が付いたことはお囃子の役割の大きさ。大太鼓・小太鼓・打楽器・笛の4人の演奏者が奏でる、時に軽快で、時に激しいリズミカルな調べが心を躍らせる。舞いとマッチする。
 石見神楽は神に奉納する神事ではあるが、エンタテイメント性が高く、ストーリがわかりやすい。(写真:大蛇の競演)

        (お囃子の4人)
 

       (立ち上がる大蛇)


       (須佐之男命)