マーちゃんの数独日記

かっては数独解説。今はつれづれに旅行記や日常雑記など。

鎌倉から葉山へ

2020年01月16日 | 映画・美術・芝居・落語

 字体を少し大きくしてみました。
 昨年暮れに知人のTさんの夫さんが亡くなられたことを知った妻は新年になったらお線香を上げに葉山へ行こうと決めていたらしい。その一方で「神奈川県立近代美術館鎌倉別館」が昨年リニューアルされたことも知り、湘南方面に出かけるから一緒に行かないと私に声を掛けて来た。私は勿論OKでコース計画にも参加した。

 葉山にあるTさんのお宅は逗子からバスになる。鎌倉⇔逗子間は横須賀線で1駅の5分。そこで、最初に鎌倉にある美術館を観た後、逗子から葉山へ回ろうと決めて、1月10日(金)に一緒に出掛けていった。鎌倉へは何度も行っているが、今回は乗り換えが1度で済む武蔵小杉を経由してのコースを選んだ。
 千石→(三田線+東急線)→武蔵小杉→(JR横須賀線)→鎌倉→(徒歩)→美術館



 武蔵小杉で東急線から横須賀線への乗り換えはその間の距離が非常に長く大変だった。この経験は一度だけで良いな。鎌倉下車後、人通りの多い小町通りからすぐに鶴岡八幡宮の参道へ。お参りは大鳥居のところまでにして、鎌倉街道へと左折して街道沿いに進むと左手に美術館はあった。






 入館して直ぐに建物についての説明が掲示されていた。昨年リニュアルオープンした鎌倉別館の建物の設計は前川國男の弟子の大高正人と書かれていた。前川國男は「国立西洋美術館」を設計した、かのル・コルビュジェの弟子。要するに大高はコルビュジェの孫弟子にあたることを初めて知った。西洋美術館も、3年前に弘前で見た前川設計の建物もピロティスタイル。そこで展示作品を観終わってから建物をしっかり観察した。1階は右写真の如し。そのピロティを利用してカフェが作られていた。庭園を眺めながらコーヒーブレイク。




 展示室は2階にあり、30数点の近代絵画が展示されていたが、私が見たことのある展示絵は、岸田劉生の「童女図(麗子立像)」と松本峻助「立てる像」の2点のみ。
 ここの入館料は神奈川県民の割引は無かったが65歳以上は600円が半額の300円という割引。この方式は神奈川県立近代美術館葉山と同じだった。
 鎌倉別館見学後、鎌倉から葉山へと回った。





 (追記)
 この美術館の歴史は意外に複雑で、冊子の記述を整理しながら記すと、
 神奈川県立近代美術館は、1951年に日本初の公立の「近代美術館」として鶴岡八幡宮の境内に誕生し、「鎌倉館」と呼ばれて来た。1966年にその建物に隣接して新館が完成。更に1984年に鎌倉別館が建設された。新館は2016年に閉館され、神奈川県の重要文化財に指定され、鶴岡八幡宮に譲渡・移転され現在は「鎌倉文華館 鶴岡ミュージアム」として運営されている。
 一方、1984年に新設された鎌倉別館は昨年リニューアルされ、そのオープン記念として「ふたたびの近代」展が開催されていたのだった。
 

 


中村梅丸改め中村莟玉に

2020年01月13日 | 映画・美術・芝居・落語

 今回は、こんな偶然もあるんだという話です。
 1月11日(土)夜、富士前町会の新年会が文京グリーンコート内の、イタリア料理店「トラットリア」2階で開かれた。私は早めに着席して開宴を待っているとKさんも早めに来て私の隣に座った。新年の挨拶もそこそこに彼はいきなり「中村莟玉を観てきました」と語った。これには驚いた。前回のブログの最後に私は「梅丸は中村莟玉と改名した」と書いたばかりだったからだ。
 当然、私のブログを読んでいるのかと思いながら、そこには直接触れないで「どうして莟玉を観てきたの」と聞いた。するとKさんはこう語った。「彼は昭和小学校の出身で、私の子供と同級だったのです。稽古ごとも同じ教室に通っていました。だから梅丸時代から彼には関心があり、子供も含め家族3人で新橋演舞場に行って、中村莟玉を観てきたのです」とのこと。ブログの延長線上の話であるかのように彼が「中村莟玉」の話をしてきたのは偶然だったのだが、梅丸君がご近所の多くの方や私の息子が卒業した昭和小学校というのも偶然だった。








 これは偶然とは言いきれないが、11日の東京新聞の新企画『芸道まっしぐら』の第1回で、「つぼみ いずれ大輪に」と題して莟玉が紹介されていた。ここではその記事から莟玉を紹介し、その後もう一つの偶然に触れたい。  
 彼は歌舞伎とは関係ない一般家庭の生まれで、歌舞伎好きの母親に連れられて2歳の時に歌舞伎を初見学。お囃子に合わせて手をたたいて楽しむなど、歌舞伎に「はまった」らしい。7歳の時に中村梅玉を紹介され、歌舞伎の道へ。
 「莟玉」という珍しい芸名の「莟」は梅玉の養父中村歌右衛門が自主公演を「莟会(つぼみ)」として行ったことに由来。有望ながら花が開く前の若者という意味だそうで、難しそうな芸名だが、良い名前を貰ったなと思う。美形ゆえ女形と私は思い込んでいたが、立役、女形のどちらかに自身の型を決めるつもりはなく、どちらも勉強していきたいという。
 新春の新橋演舞場では「御存鈴ヶ森」の白井権八役。市川海老蔵の幡随院長兵衛相手の大きな役をつとめているそうな。24歳の若武者の甘いマスクの心の奥には熱い歌舞伎愛があふれている、と結んでいた。

 梅丸君は昭和小学校を卒業後都立白鴎中学に進学し、白鴎高校を卒業した。10/8/31のブログに書いたように、その頃私は偶然に知り合った白鴎中学の3年生6人に地域活動センターを利用してクイズを出したり数学を教えていた。梅丸君はその生徒たちと同学年か1級下。これも偶然だった。
 


「新春浅草歌舞伎」へ

2020年01月10日 | 映画・美術・芝居・落語

 16日(月)、「新春浅草歌舞伎」第2部を観てきた。今年も東京新聞募集の抽選に当たったのだった。
 2013年から毎年の様に、新春の浅草歌舞伎を観てきた。今年は会場の「浅草公会堂」へ行くルートを変えてみた。まずは、都バス<上58>で上富士から上野松坂屋前へ。松坂屋で夕食用のお弁当を購入。その後、浅草方面へ通じるバス停に向かった。こちらの「上野松坂屋前」からは浅草方面を通るバス路線が3つある。「平井駅前」行きと「錦糸町駅前」行きなら浅草雷門下車。「南千住駅東口」行きなら浅草公園六区下車。どちらの下車駅からも会場まで徒歩7分くらいだ。一番先に来たバスに乗れば良いと待っていると「錦糸町駅前」行きが最初にやって来た。待ち時間は少ないし、御徒町からここまで僅か15分での到着。
 観劇の前に新春の浅草をぶらついた。まずは新仲見世の「やげん掘り」で七味唐辛子を購入。浅草寺は相変わらずの賑わいで、新春故か日本人の着物姿が多いが、外国人の着物姿も目立った。








 さてお目当ての歌舞伎は今年も若手が中心。第2部は『絵本太功記 尼ヶ崎閑居の場』と『仮名手本忠臣蔵 祇園一力茶屋の場』の二本立て。「お年玉(年始ご挨拶)」は坂東巳之助だった。5年前の「独楽売」で巳之助ファンとなったのだが、張りのある、実に聴きやすい声だ。
 
『太功記』の主人公は武智光秀で、今年のNHK大河ドラマ『麒麟がくる』の明智光秀をモデルとしたお芝居。
 ストーリーを簡単に。舞台は、光秀(中村歌昇)が主君を討ってしまったことを快く思わず、光秀の母皐月(中村梅花)が引きこもってしまった尼ヶ崎の庵室。そこへ光秀の息子十次郎(中村隼人)が許嫁の初菊(中村米吉)とやってきて、父を助ける為に初陣の許可を願い出る。初菊はこれを必死に止めるのだが、決心は変わらない十次郎。出陣の鎧を身に着けて現れた十次郎を見た皐月は十次郎の決心が固いことを悟り、初陣と祝言のふたつのお祝いを兼ねて二人に盃を交わさせる。結局十次郎は出陣し深手を負って戻って来て、嫁となった初菊に抱かれて息絶える。・・・この芝居まだまだ続くのだが、私には後半より前半の、武智家の苦悩を描いたこちらの場面がこの芝居の一番の見所と思える。(写真:表の看板「絵本太功記」)
 初菊役の米吉がいい。十次郎の初陣を思い留まらせたい初菊の一途の思いが切々と伝わってきた。
 些か残念だったのは、美形の梅丸の姿が今年の「浅草歌舞伎」には見られなかったこと。梅玉の養子となり中村莟玉(かんぎょく)と改名した。彼はここから飛び立ったのかも知れない。梅玉との出演の方に重点が移るのだろうか。(写真は左:やげん堀、右:浅草寺)
  
 
 


『男はつらいよ お帰り寅さん』 を観て

2020年01月07日 | 映画・美術・芝居・落語

 1月3日(金)、東宝シネマズ上野で『お帰り寅さん』を観てきた。楽しい映画で、終わりでは胸キュンとなった。
 
私は待ち切れない思いで封切りの『男はつらいよ』を観にいったことはなかった。テレビで放映されるシリーズを観た程度だが、今回は渥美清が“現役出演”しないで、どうやって「寅さんシリーズ」が作られるのかに興味があって封切り作品を観にいったのだった。
 幕が開くといきなり桑田佳祐唄う主題歌「男はつらいよ」が聞こえて来た。
 本作品の主人公はさくら(倍賞千恵子)の長男諏訪満男(吉岡秀隆)と、彼の初恋の人、旧姓及川泉(後藤久美子)。






 亡くなった満男の妻瞳の7回忌が柴又の実家で行われ、そこに集うのはさくらとその夫(前田吟)や御前様(笹野高史)など。懐かしい面々が顔を揃えている。
 満男はサラリーマンを辞めて小説家になっていた。6年前に妻は先立たれ、中学3年生の娘ユリと二人暮らし。最新作の売り上げが好調でサイン会が開催される。一方泉は現在、海外で国連難民高等弁務官事務所の職員となり、夫とふたりの子どもと暮らしている。仕事で来日中に偶然満男のサイン会を知って会場を訪れ、二人は再会したのだった。再会後満男は泉を最近よく行くジャズ喫茶に連れていく。そこには、昔、奄美大島で会った寅さんの恋人リリー(朝丘ルリ子)がいた。

 泉はこの来日を機会に、ケアセンターに入居中の父一男(橋爪功)を訪ねた。満男はそこで泉の母礼子(夏木マリ)にも再会。一男と礼子は離婚していたが、満男を前にして大喧嘩を始める二人に困り果てる泉。彼女を気遣い助ける満男。
 
成田空港での別離の時、満男が初めて妻が亡くなったことを告げると、泉は何故それを教えてくれなかったのと満男に寄りかかり、ふたりは唇を合わせる。
 随所に、新作に繋がる、
過去に制作された「寅さんシリーズ」の場面が挿入され、そこに寅さんが登場していた。( )に記したのは旧作にも新作にも登場した役者。新撮された登場人物たちの現在とデジタル修復されて蘇る寅さんが見事に紡ぎあいながら物語は進んでいった。映画界を引退したはずの後藤久美子の出演がなかったらこの映画はありえなかっただろう。彼女の美しさが一段と印象に残った。
 今回初めて映画鑑賞の席をネット予約をした。前が通路なる席は売り切れていた。
その席の人気が高い理由を知った。お正月とは言え平日の9時40分の開演時には7割ほど席は埋まっていた。「寅さん」の人気は衰えていない。


再び「藍染川通り」を歩く(その2)

2020年01月04日 | 江戸の川・東京の川

 12月25日に「藍染川西通り」と「藍染川通り」を歩いた時の様子を、前々回のブログよりも大きい地図を使って綴ることにする。



 Aの分流地点は、正確には道灌山下より100m弱西日暮里寄りの交差点「道灌山下」の地下にあった。上流から流れてきた水路はここで、不忍池方面へと続く下流と三河島方面へ向かう「排水路」に分かれた。
 A→B間の水路はトンネルになっていて暗渠の痕跡は無い。A点から出発し道灌山通りを東に進むと直ぐ左手に開成高校が現れる。更に進んで西日暮里駅下のガードを潜り「さくら水産」店を左折するとB地点。A⇔B間のトンネル内部の写真が残されている。
 『もうひとつの藍染川、のものがたり』(吉村生氏著)に右写真が載っていて、その説明によればレンガ積みとのこと。この写真は見た覚えがあった。ラジオ体操最古参の“髭ジイ”から貰った写真集『胎内都市』(白汚氏著)と全く同じだった。こちらの説明では「(これは)藍染川幹線のバイパス管。昭和36年に覆蓋され合流式下水道になった。約130mにわたる煉瓦の馬蹄形渠が残されていて、現在は増水時のバイパス管として利用されている」とあった。この写真を見た当時、どうやって撮影したか不思議に思ったものだったが特別の許可が下りたのだろうと推測してる。








 B地点に立ち後ろを振り向くと「さくら水産」の建物の下に暗渠の痕跡が見える(右写真参照)。進行方向を見ると「藍染川西通り」(下の写真)の標識が見える。「荒川5中」への通勤時にこの標識を見てこの暗渠を探り始めたのだった。
 B→C間は、高架となっている京成本線の下を真っすぐ進んだ。ほぼ一直線なので見通しが良い。私の手元には無いが大正時代の地図には開渠時には13個の橋が書かれていたそうな。ここまでが「藍染川西通り」で、ここから先は「藍染川通り」と、通りの名称が変わる。
    

 下の地図は上の地図の東隣りの地図


 C地点には新三河島駅があり、明治通りと交差している。1926(大正15)年には明治通り沿いには鉄筋コンクリートの「子(ね)の神橋」が架かっていたが、明治通り拡幅の際に廃止されたそうだ。その名残となるものが何か残されていないかこの周辺を探索したが何も見いだせなかった。

 C→D1間で下水工事が行われていた。工事名を見ると右写真のように、何と「藍染川幹線補修工事」と記されていて、この暗渠は現在では「藍染川幹線」と呼ばれる下水路になっていることを確信したのだった。








 D1地点は「尾竹橋通り」との交差点で、「花の木橋」が架かっていた。ここでもその痕跡を探したが何も見つからなかった。かっては右写真の親柱が建てられていたそうな。
 D2で都電「荒川線」を越えると、D2→Eは5年ほど前「荒川5中」へボランティア教員として働いていたころの通勤道。E地点は「町屋斎場」前でここには「子育橋」が架けられていたそうだ。Eを過ぎF近くなると懐かしい荒川5中が見えて来た。今回はここで引き返し、荒川区役所前から池袋東口行き都バスで帰路に着いた。