・10/ 3 恵庭(JR)→苫小牧市(バス)→苫小牧東港(フェリー)23:30→
・10/ 4 敦賀港着 20:30(船員会館)
・10/ 5 敦賀港→坂井市 120Km(Yさん宅)
・10/ 6 滞在;永平寺、丸岡城、越前竹人形館など
・10/ 7 坂井市(JR)→羽咋ハクイ市(民宿)
・10/ 8 羽咋市→輪島 90Km(民宿)
・10/ 9 輪島→能登町 85Km(Y.H)
・10/10 能登町→能登島→七尾市・和倉温泉 75Km(旅館)
・10/11 和倉温泉→45Km 氷見市(JR)→出雲崎(旅館)
・10/12 出雲崎→新潟港 65Km(フェリー)23:30→
・10/13 苫小牧東港着 17:20(車)→恵庭市
10月12日-13日
福井県の友人を訪ね、能登半島を一周し、行きたかった良寛の故郷出雲崎を散策する11日間の旅も残すは新潟港までの65Kmになった。
午前中は出雲崎の街をポタリングし、新潟港に向かうことにした。
《良寛堂》;良寛の生家橘屋の屋敷跡。道路側(堂の裏)に佐渡ヶ島を見つめる良寛の座像があった。
《良寛記念館》
良寛(1758~1831)は、江戸後期の歌人、漢詩人。出雲崎の名主兼神職の長子として生まれた。号は大愚、幼名は山本栄蔵る。
18歳のときに家を継いだが、突如、隣町の曹洞宗光照寺の徒弟となり出家して良寛と称した。
その時に出会った岡山県倉敷市の円通寺の国仙和尚に心酔し、以後20年間師事し、40歳を過ぎて越後に帰った。
故郷の国上山の「五合庵」に一人で暮らし、老いてから長岡市の豪商能登屋の庵に移るが、出入りしていた若い貞心尼と没するまで親密な交流をした。
良寛は無欲恬淡な性格で、寺を持たず、難しい説法を行わず、「子供の純真な心こそが誠の仏の心」と解釈し、子供達を愛し積極的に遊んだ姿が今に伝わっている。
子供達から凧に文字を書いて欲しいと頼まれた時には喜んで『天井大風』と書いたと云われている。
すべての生きものに愛情を注ぎ、老若男女、富者貧者を問わず等しく交流し、人としてどうあるべきかを常に問いかけた人生だった。
良寛の密かな好物だったという『白雪こう』というお菓子を売っている「大黑屋」の店主は良寛の研究家だった。“らくがん”のような素朴でほんのり甘い味だった。
『良寛記念館』に行と、「釧雲水」なる人物の墓碑銘があった。説明文によると、長崎県島原の南画家で、出雲崎の蕎麦屋で酒に酔い頓死したとあった。享年53歳だった。
良寛や釧雲泉と交友のあった江戸の書家で儒学者の亀田鵬齊の書による。内容についての解説が無かったのが残念だった。
《出雲崎の街並み》;切妻家屋の三角形の壁面に出入り口を設ける「妻入り建築」が連なる。間口が狭く奥行きがある。
出雲崎は、佐渡の金銀が陸揚げされ、江戸へと運ぶ「北国街道」の宿場町として栄える一方、佐渡への罪人送り、処刑の場でもあった。
良寛が仏門に入ったのは金銀を巡る争いや名主見習いとして処刑に立ち会わなければならないことからの逃避だったという説もある。
処刑場の跡地に小さな仏像が幾つも立てられ、秋の草花が供えられていた。
-良寛の歌から-
淡雪の中にたちたる三千大千界(みちあふち)またその中にあわ雪ぞ降る
盗人にとり残されし窓の月
うらをみせおもてをみせて散るもみじ
佐渡は荒海。全く見えず。新潟港へ向かった。
砂浜と防風林の日本海沿いを北上して新潟市内に入ると偶然に横田めぐみさんの拉致現場の看板が目に飛び込んできた。護国神社の傍だった。
報道されているとおり、辺りは海の直ぐ近くの住宅街。暫し佇み、忌まわしい事件の解決を願った。
一旦フェリー乗り場に自転車を置きに行った。バスで市内に戻り、狸小路のような繁華街を歩いていると酒場詩人吉田類氏のトークショーに人が集まっていた。
テーブルの上には地酒、ワインが数本立っていて、少々ろれつが・・・。
こちらも居酒屋でほろ酔いになって、23:30発の苫小牧東港行きのフェリーに乗って無事自宅へと戻った。妻に感謝だ。
温かくなったら旅に出たいものだがコロナ禍が続きそうなのでまた旅の回想を楽しむことにしよう。2021.5.6