《2017.10.6 音威子府付近の天塩川》
2017年10月に道北自転車旅をした。名寄までバス輪行、そこから天塩川沿いに音威子府まで北上してオホーツク海側の浜頓別に抜け、稚内が終着地という3泊のコースだった。
帰路は宗谷勤務時代を思い出しながら、将来、廃線となるかもしれない稚内~札幌のJR普通列車で輪行した。
音威子府村では松浦武四郎が我々の住むこの島の名を「北加伊道」と想起したという天塩川の川縁を訪ね、同じ筬島(オサシマ)地区に建つアイヌの木彫家・砂澤ビッキの記念館に立ち寄った。快晴の広がる気持ちの良い日だった。
『ビッキ記念館』の正式名称は『エコミュージアムおさしまセンターBIKKYアトリエ3モア』という長い名前だ。
"BIKKY"の最初のアトリエは札幌にあった「モア」。2番目の「モアモア」に続き、音威子府高校の狩野校長に誘われて閉校した筬島小学校に構えた3番目が「3モア」となった。
記念館には多くの木彫とともに朽ちた木が収められた桶のようなものがいくつかあった。
先日の北海道新聞(2020.4.24)で砂澤ビッキが音威子府村に建てた「フクロウ」「エゾシカ」「キツツキ」の3本の木製トーテムポールのうち、最後まで残っていた「フクロウ」が強風で倒れたことを知った。旅の時は見ていないものだった。
1989年(平成元年)には音威子府村駅前の巨大なトーテムポールも倒れている。ビッキ記念館にあった朽ちた木片はそうした作品群であり、「エゾシカ」と「キツツキ」も含まれていたのだろう。
砂澤ビッキの年譜に「昭和58年(52歳)にカナダに渡り、ハイダ族の彫刻家と交流」とあった。「ハイダ族」は、カナダのベーリング海沿岸の島で『トーテムポール文化』を築いた海洋インディアンだ。
彼らには太古の昔、北東アジアから漂流してきた姉妹の血が流れているという言い伝えがある。
ハイダ族の子孫はトーテムポールの立つエリアを神聖な場所として、それが朽ちるままに残しているという。(『旅する木』星野道夫著)
砂澤ビッキは「自らの作品はつくったときが完成なのではなく、自然の力が加わってこそ完成する。」と考えていたという。ハイダ族の血を意識していたのかもしれない。
「フクロウ」も朽ちることで完成して、ビッキの記念館のあの場所に帰ることになるのだろう。
《ビッキさんの母親は刺繍の名人だった。》