2018年7月7日
4月の自転車旅で日程的に行けなかった『八田ダム』のことを家に戻って本で読み、訪れることにした。
台北から鉄道で南下して嘉義市辺りに来ると水田が広がり、その水は『八田ダム』から引かれていたことが分かった。
正式な名前は「烏山頭(うさんとう)ダム」。
第二次大戦中に台湾総督府の技師だった八田與市氏が10年をかけて 完成させた農業灌漑施設は台湾西南部の平野を潤し、台湾の人が親日的であることの理由にもなっているそうだ。
《水上駅》
日本の新幹線車両を入れた台湾鉄道の高鉄(新幹線)に乗ってみた。
台北の傍の南港駅から高雄近くの左営駅まで1時間45分。そこから普通列車に乗り継いで北に戻り、ダムのある水上駅に着くと物凄い スコール。駅舎で晴れるのを待って、タクシーでダムへ向かった。
運転手にその旨を筆談で示すと、65才以上なら900TWDで案内してくれるという。 その理由は分からなかったが4,000円くらいか。多分、割り引いてくれているのだろう。
身振り手振りだがお互いの思いを想像し合うコミュニケーションは楽しく、生き物の原点回帰を感じる。
ダム到着まで台北を10:00に出発して4時間が経っていた。
《ダム建設作業に使用された鉄道機関車》
人跡未踏の「烏山頭」に八田與一氏がダム建設を発案したのは1920年(大正9年)。それから10年をかけて完成させた。現在のお金で5,300億円という巨費が投じられた。
台湾の農地の2割、香川県の広さに匹敵する面積を潤している。3年輪作で稲作が出来るよう精緻な給排水路が敷設されていて、その総延長は地球を半周するほどの長さという。
《八田與一氏像とご夫妻のお墓(像の後方)》
八田ダムは地元では「烏山頭水庫」と呼ばれ、今は大きな公園になっている。調査設計から完成まで携わった八田與一、外代樹(とよき)夫妻が小高い丘から珊瑚潭と 呼ばれる堰き止め湖を眺めていた。
小雨が続いていたが、ご夫婦のお墓を遠くに見つけた時だけ一瞬南国らしい暑い陽射しが注いだ。印象的だった。
『日台の架け橋・百年ダムを造った男』(斎藤充功著;時事通信社 2009年)によれば権威ある編年史の「日本土木史」に八田與一氏の功績は一行も記されていないという。
日本国内の功績ではないということか。。。であれば了見が狭く、寂しいことだ。
地元では毎年ご夫妻の慰霊祭を行っているとのことだった。『八田ダム』と言うとタクシーの運転手が親切に案内してくれたのも八田與一氏の人徳であろう。
八田與一には2男6女の子供がいた。
嘉義市の建設現場や東京、アメリカ出張で家を空けることが多く、子供を育て、家を守り、與一氏を陰ながら支えていたのが同郷金沢出身の妻外代樹だった。
昭和17年、日本軍は南方に作戦展開し、政府は資源獲得を目的として「南方産業開発派遣隊」を編成している。八田與一氏も選抜されるが、知識と技術に加え、土木屋を使いこなす能力を高く評価されたことが後の悲劇となった。
マニラに向けて乗船した「太洋丸」が同年5月8日の夜に五島列島沖合で魚雷により撃沈され殉職する。
享年56歳。その後、妻外代樹が『八田ダム』の周辺を散策する姿が見られたという。
終戦の9月1日未明、外代樹はひとり宿舎を抜け出しダム放水口へ向かった。紋付き白足袋だった。
机の上に「玲子も成子も大きくなったのだから、兄弟、姉妹仲良く暮らしてください。」と書かれた便せんの遺書があったという。
因みに八田與一氏を育てたのは道庁技師から東京帝大工学科教授に転じた広井勇である。道内の港、鉄道工事に数々の業績を残している。
農業の分野は違うけれど遠い先人の志と質の高さに触れた「八田ダム」だった。
「太洋丸」の写真
妻外代樹が身を投じた「放水路」
次いで「台湾の農地の2割、香川県の広さに匹敵する面積を潤している。3年輪作で稲作が出来るよう精緻な給排水路が敷設されていて」は、何回も読みました。「3年輪作」はいろいろ考えましたが、とにかくなんか嬉しかった。
「9月1日未明」の出来事は、その心境を色々考えさせられたもの。終戦からの16日間、感じ、思っていたことを知りたいような。
でもとにかく「遠い先人の志と質の高さに触れた」と言われるようなお二人だ。だからこそ、ここで先頭のタクシー運転手さんの記述や「台湾の2割」に帰って行ける。
よい読み物を有り難うございました。
再度、訪問して良かったです。
八田與一氏は格上の朝鮮総督府には敢えて行かずに台湾の農業開発に人生を賭けたところも素晴らしいと思いました。