季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

関連付けたい心理

2008年05月07日 | Weblog


小学校のクラス会だけは出ることにしている。担任の先生が定年を迎えられたのを機に、小規模ながら、毎年地元で開かれている。

最初のクラス会が開かれた時、出席しようか、迷った。元来、集団を懐かしむ気持ちが皆無なのだ。初めて出会ったピアノ弾きを、ほらほら、あなたの後輩ですよ、なんて、僕がその人に親しみを持たねばならないかのように紹介される。こんなのは困るな。ほらほら、こちら方のお名前も重松さんですよ、仲良くなさいね、なんて言われたって当惑するばかりだろう。そんな調子だったら、佐藤さんなんて名前だった日には、みんな仲良く独立国でも作らなければなるまい。

6年のときの担任の先生は、当時あんちゃんのような若さで、女子と違ってこちらは単なるガキだった。ただ気の優しい人だったという印象以外無かった。女子は、なんといってもませているから、あることないこと、深読みするのさ。

ひとつ、僕がドイツに住んでいる間に、級友が亡くなった。その際、先生があれこれお世話をなさったという風の便りを聞いた。その話を聞いたとき、先生の人となりが分かったように思う。

正直に言うと、僕は懐かしさから出かけたのではないのだ。定年を迎えたという先生がどんな歳の重ね方をしたのか、知りたく思ったのだ。かわいげがないのである、簡単にいうと。その結果、何ごとも起こらない限り毎年出席しているのである。先生はよい人である。そう感じてはじめて懐かしさが生じる。

何十年も経つと、人間はいろいろだと思わずにはいられない。小学校時代にはお互いまったく接点もなく、心の底から無視を決め込んでいた奴が、人情味のある男なのだと発見したり、面白い。そして、なるほど、彼の身になってみれば、僕について好感を持つはずがなかった、と合点が行く。

中には小学校の教員になったのもいる。野球でそれなりの活躍をして、いまだに「現役」だというのもいる。

そんな人たちの中から出てきた話題をひとつ取り上げる。

データに拠ると、所謂いじめはサッカーをやっている子の間で多く、野球をやっている子の間では少ないという。「だから」サッカーが流行らなかった方がよかったのだ、ということであった。

データに脱帽しよう。僕は議論を中途半端にすることはできないから、クラス会の席上ではただ黙って聞いていた。議論の場ではないから、座を荒らすのはいやだものね。第一、野球大好きというか、野球に人生をかけているような人までいるのだ。よほど上手にものを言える人でない限りうまくいかないさ。

野球というのは、どんな嫌われ者でも、かならず打順が回ってくる。言い換えれば、殊勲打を打った者はその時はヒーローになる。どんな人にも同じ回数、ヒーローになるチャンスがある。

サッカーは常に同時進行しているゲームだから、プロはともかく、子供のレベルだったら、ボールを回さないことで充分にのけ者にできる。それが一番の理由で、サッカーを「していた」からいじめが多くなった、というのはずいぶん短絡した見方だ。

でも、学校の教員をしている友人をはじめ、熱心な人ほどそういうデータ自体は数多く集めていて(耳にしている程度かもしれない)、サッカーさえなければ、という空気に支配されていくのは、典型的な今日の有様だと思った。ひとことだけ「でも、サッカーがあれほど盛んなヨーロッパやブラジルで、日本式のいじめが頻発していないのはなぜだい?」と聞き返したら、みんな「そうかぁ」と口ごもってしまった。要するに、データを読み切れていないのさ。

なにか問題が起こったとき、直接の犯人(原因)を見つけると安心する傾向があるからね。人の心なんて、そう簡単に理由通りに動いているものではない。テレビの「コメンテーター」とよばれる輩のしたり顔を見ていると、はり倒したくなることが多い。だから僕はテレビを見ない。