生徒から聞いた話をもとに書く。
僕はテレビ、新聞と隔絶した生活を送っているので、自分で見聞することがないのだ。
N響が地方の学校をまわって演奏を披露し、音楽に関心を寄せる若い人を増やそうと試みているという。テレビで紹介していたそうだ。どの局かは聞かなかったが、まあ常識的に考えればNHKかな。
少し脱線しましょう。予告して脱線するのもなんだなあ。確信的脱線は脱線というのだろうか。電車の運転手じゃなくてよかった。
NHKはイギリスのBBCを手本にしていると聞くが、それはちと生意気だろう。100年早い。
以前テレビを見ていたころ、この局でヒマラヤを雁が(聖火ではないよ)越えていくというのをテレビ欄でみつけた。ヒマラヤを!雁が飛び越えていく!なんというスケールだ。大いに心動かされて僕はスイッチをいれた。
ところが画面にはスタジオが現れ、司会者と助手(アシスタントというもっともらしい名前が付いているらしい)それにタレントが座っている。
タレントを呼んだ手前、司会者は何かにつけて「○○さん、いかがでしょうか」と話題を振る。タレントはタレントで「雁すごい、雁えらい」とただ芸もなくわめくばかりで、肝腎の雁がヒマラヤを越えていくところの印象はひとつも残っていない。その場面は、僕の脳髄から消去されていることに、たった今気づき、ショックを受けている。バックアップを取っておくべきだった、なんてトンチンカンなことを考えている。
こんなコメントを言えばすむのなら出演を引き受ければよかった。もっとも出演を依頼されていないので、そこが悔やんでも悔やみきれないところだ。
「雁すげー、雁えれー」と僕がわめいたら、NHKが推し進めているらしい庶民化に一役買っただろうに。第一ギャラが破格に安い。少し支払っても良いくらいだ。
あれ、脱線が過ぎて、N響の話題からどんどん離れていくな。えい面倒だ、またいつ思い出すか知れないから、この際テレビがらみのことを書いてしまおう。
いつだったか、NHKの視聴者センター(正確な名称は知らない)に、昔見た番組、音楽もあるし文士が出ていたのもある、この再放送は可能かどうかを訊ねたことがある。それが無理ならば、商品として販売するべきではないか、と述べたのである。すると驚いたことに80年!代半ばまで、テープ代を節約するために上書きしていたと、皆様のNHKの声で説明してくださった。
演奏会で僕の真横に仰々しいカメラが据えられていたことだって何度もあるのだが、それらは皆消去されていて、残っていないというのだ。嘘だと思う人は直接訊ねてご覧なさい。たとえばケンプ、ゼルキン、ホッター、フルニエのバッハ無伴奏(これは放映されたのを正月に見た記憶がある)、あるいはケンプ・メニューイン・ロストロポーヴィッチによる「大公トリオ」いくらでもある。
それでいながら「連続テレビ小説」や「お笑いオンステージ」などは立派に、「NHK」の誇るライブラリーに保存されているのだ。これも確かめてみればよい。
間違えないで欲しいが、僕は所謂芸術を文化の上位に持ってくるべきだと主張しているのではない。ただ、「記録」というものをここまで浅薄に考えていてBBCを手本にというずうずうしい神経が理解できないのだ。今日手に入る往年の名演奏家のDVDは大抵がフランス、イギリス、ドイツ、カナダなどの放送局が所有していた映像なのだ。意識の持ちようがまるで違うと言わざるを得ない。
僕が、BBCを手本にとは100年早いとまで言い切るのもお分かりかと思う。と書いてから、はたとキーボードを打つ手が止まってしまった。50年ほど遅すぎたと言うべきではないだろうか。50年前にBBCを手本にしていれば、こんなことにはならなかったのだからな。
序でに言っておけば、自然番組だって、よくまとまって人工的な感じがしないときは大抵、BBCだ。そうだ、これについては別に書いておこう。(テーマは雑談同様、いくらでも湧いてくる。というか、このブログは雑談だから当然なのである)
この国では、テレビというメディアも使いこなしていない。使いようによっては良くもなるのでは、と常に思っている。
というわけで、N響のはなしは次にまわす。
僕はテレビ、新聞と隔絶した生活を送っているので、自分で見聞することがないのだ。
N響が地方の学校をまわって演奏を披露し、音楽に関心を寄せる若い人を増やそうと試みているという。テレビで紹介していたそうだ。どの局かは聞かなかったが、まあ常識的に考えればNHKかな。
少し脱線しましょう。予告して脱線するのもなんだなあ。確信的脱線は脱線というのだろうか。電車の運転手じゃなくてよかった。
NHKはイギリスのBBCを手本にしていると聞くが、それはちと生意気だろう。100年早い。
以前テレビを見ていたころ、この局でヒマラヤを雁が(聖火ではないよ)越えていくというのをテレビ欄でみつけた。ヒマラヤを!雁が飛び越えていく!なんというスケールだ。大いに心動かされて僕はスイッチをいれた。
ところが画面にはスタジオが現れ、司会者と助手(アシスタントというもっともらしい名前が付いているらしい)それにタレントが座っている。
タレントを呼んだ手前、司会者は何かにつけて「○○さん、いかがでしょうか」と話題を振る。タレントはタレントで「雁すごい、雁えらい」とただ芸もなくわめくばかりで、肝腎の雁がヒマラヤを越えていくところの印象はひとつも残っていない。その場面は、僕の脳髄から消去されていることに、たった今気づき、ショックを受けている。バックアップを取っておくべきだった、なんてトンチンカンなことを考えている。
こんなコメントを言えばすむのなら出演を引き受ければよかった。もっとも出演を依頼されていないので、そこが悔やんでも悔やみきれないところだ。
「雁すげー、雁えれー」と僕がわめいたら、NHKが推し進めているらしい庶民化に一役買っただろうに。第一ギャラが破格に安い。少し支払っても良いくらいだ。
あれ、脱線が過ぎて、N響の話題からどんどん離れていくな。えい面倒だ、またいつ思い出すか知れないから、この際テレビがらみのことを書いてしまおう。
いつだったか、NHKの視聴者センター(正確な名称は知らない)に、昔見た番組、音楽もあるし文士が出ていたのもある、この再放送は可能かどうかを訊ねたことがある。それが無理ならば、商品として販売するべきではないか、と述べたのである。すると驚いたことに80年!代半ばまで、テープ代を節約するために上書きしていたと、皆様のNHKの声で説明してくださった。
演奏会で僕の真横に仰々しいカメラが据えられていたことだって何度もあるのだが、それらは皆消去されていて、残っていないというのだ。嘘だと思う人は直接訊ねてご覧なさい。たとえばケンプ、ゼルキン、ホッター、フルニエのバッハ無伴奏(これは放映されたのを正月に見た記憶がある)、あるいはケンプ・メニューイン・ロストロポーヴィッチによる「大公トリオ」いくらでもある。
それでいながら「連続テレビ小説」や「お笑いオンステージ」などは立派に、「NHK」の誇るライブラリーに保存されているのだ。これも確かめてみればよい。
間違えないで欲しいが、僕は所謂芸術を文化の上位に持ってくるべきだと主張しているのではない。ただ、「記録」というものをここまで浅薄に考えていてBBCを手本にというずうずうしい神経が理解できないのだ。今日手に入る往年の名演奏家のDVDは大抵がフランス、イギリス、ドイツ、カナダなどの放送局が所有していた映像なのだ。意識の持ちようがまるで違うと言わざるを得ない。
僕が、BBCを手本にとは100年早いとまで言い切るのもお分かりかと思う。と書いてから、はたとキーボードを打つ手が止まってしまった。50年ほど遅すぎたと言うべきではないだろうか。50年前にBBCを手本にしていれば、こんなことにはならなかったのだからな。
序でに言っておけば、自然番組だって、よくまとまって人工的な感じがしないときは大抵、BBCだ。そうだ、これについては別に書いておこう。(テーマは雑談同様、いくらでも湧いてくる。というか、このブログは雑談だから当然なのである)
この国では、テレビというメディアも使いこなしていない。使いようによっては良くもなるのでは、と常に思っている。
というわけで、N響のはなしは次にまわす。