とんだ脱線騒ぎでまた新たにはじめざるを得ないのが癪の種だ。
N響が学校をまわって、音楽好きな若い芽を育てようと取り組んでいる、という話だった。
それを僕に教えてくれた生徒によれば、なにかイヤな感じがしたということである。
演奏してまわること自体はよい。ただ、そんな曲目の中にアニメの主題歌などが入っていたのに、大きな違和感というか、お菓子でつる大人みたような嫌らしさを感じたというのである。
僕はこの生徒の感覚を支持する。
若いころ、ドイツに渡る以前、一日に二カ所ずつ計何十カ所もトリオでまわる仕事をしたことがある。ヴァイオリンとチェロはその道のベテランで、ピアノだけが僕や友人達が持ち回りで受け持っていた。
本当は思い出すのも嫌なのである。たとえばヴァイオリンはゴセックのガボットとかドヴォルザークのユーモレスクをメインに、簡単に言ってしまえばお茶を濁し、トリオだって、まあ初見に近い状態で、簡略化されたものを演奏していた。
その道のプロたちは「音楽は彼らには難しいから」ともっともらしいことを言っては、ラヴェルのツィガーヌを大胆にカットし、弾くのに困難な箇所を回避し、東京から来たプロの演奏家の先生を演じていた。これを演じることにかけては皆プロであった。
ここでも断りを入れるが、僕はゴセックのガヴォットを馬鹿にしているわけではない。ドヴォルザークのユーモレスクが美しく弾かれたら、そのメランコリーに心打たれるといって良いくらいだ。
ただ、何の予備知識もない人が音楽に心打たれることが、幸運なことに、あるとするならば、それはゴセックではあるまい、それも調子をおろした。当時僕はそう思ったし、今もおよそそんな風に感じている。
もちろん人間は多様であるから、中にはその単純な美しさに心惹かれる人も出てこよう。だが、いずれにしても、心の奥から絞り出すものに反応するように人間はできている。
前に文学青年達が一心に、蓄音機から流れ出る粗末な音に耳を傾ける情景について書いた。それはいつの時代もそんなに変わるものではないだろう。
まあ、僕は当時心を込めたピアニッシモなんてできたはずもないから、人を小馬鹿にした演奏が嫌ならば、「革命」だの「熱情」だのを熱演することで「プロ」にささやかな抵抗をしていた。こうした選曲には「プロ」にも異を唱える人はいないのだ。
せっかくオーケストラが行って、アニメの主題歌だって?人を見下していると僕は感じてしまうね。「みなさん、オーケストラは怖くないよ、ほらね、みんなの好きなアニメの主題歌ですよ」とやれば勿論子供は関心を持つ。そこには「本物」があるから。
でも、こんなのは有名なレストランに連れて行って山盛りの飯を食わせて「どうです!」と言っているのとかわらない。ホラ、本物のゴハンですよ。
ところで僕は教育の見地から異を唱えていると思ったら間違いだ。彼らは勝手に育つとも言える。
そうではない。僕は、そのように人に甘い砂糖菓子を見せるような(見下したと書いたが)態度が一変して、ブラームスを、シューマンを素晴らしく演奏できる、そのような都合の良い心などありはしない、と言っているのだ。
むかし、山本直純さんが「音楽の大衆化はオレに任せろ、お前は芸術音楽をやれ(後半はよく覚えていないから適当に書いた。意味は間違っていないはずだ)」と小澤征爾さんに言ったというが、馬鹿をいうもんじゃない。すなおにオレはあまり心打たれないんだよ、こういう音楽に、と言えばよい。そうしたら僕は残念な気はするが、そんな素直な意見をいう人を嫌いにならない。
これを思い出す。
僕もどこかでブルグミュラーのような「ペンキ絵」のような曲を解説しなければならないだろう。しかし、その時は誰よりも美しく弾こうと全力を尽くすのだ。
そこで手を抜いたら、たちどころにシューベルトに、ベートーヴェンに、つけは回ってくる。今は素人用の心、今は玄人用の演奏、こんなことはできる道理がないのだ。
N響はアニメを全力で演奏したかも知れないではないか、ちょうど僕がブルグミュラーを一所懸命弾くように、という人もいるだろう。僕がブルグミュラーを弾くことだってあるのは、それが課題曲にあったりして、それの「解説」だったりレッスンすることもあるからだ。そうである限り、前述のように、本気で弾いて聴かせなければ育たない。
仮にN響がアニメソングを全力で弾いたら、こりゃ笑えるね。笑うけれど、正気を疑う。ブルグミュラーとは訳も規模も違いすぎる。鮒一匹獲るためにダムを造るような感じだ。
だから、やはりどこかに楽をして「底辺の拡大」という命題にも沿っていこうという魂胆が見えすぎるのだ。全力をつくしたまえ。
第二次大戦中、ベルリンフィルとフルトヴェングラーが工場の慰問演奏会をしているフィルムが残っている。ワグナーの「マイスタージンガー」を演奏しているが、文字通り全力を挙げている。心を打つというのは、こんなに単純きわまりない原理に基づいているのだ。