受験生がいると、いくら僕がいい加減でも過去問くらいは目を通す(こともある)。ここ数年東京芸大のソルフェージュが多少変わってきて、それは入学後の授業について学生から聞いた内容と合致する部分もあるので、ちょっと触れておきたい。
最近の問題の中に、音程を取らずにできるだけ速く(任意の)音部記号で読みなさい、というのがある。なにやら新しい勉強のような感じがするでしょう。
これは何のことだろう?いったいなぜ「音程をつけずに」読む必要があるのだろう。音程をつけられないのを「音痴」というのではなかったっけ?最近はわざわざ音痴を作り上げようとしているのか。
重松君、君は時代遅れも甚だしいな。もはや音程がとれない生徒なぞこの学校を受けには来ないのだよ。
知らなかった。みんなとれるのか、音程を。でも信じられないな、演奏を聴く限り。まあイイや。で、音痴をつくる運動はどういうわけなんですかい?
君は時代遅れといわれた真の意味を理解してはおらぬようだな。フフフ、聞きたまえ。いくら君でも現代音楽のメッカがパリで、その中心がパリ音楽院であることくらい知っているだろう。
あ~、僕はまたメッキかと思っていました。
ちゃちゃを入れずに黙って聞け。そこを中心とした作曲界で作られるものは君もよく知っているとおり楽譜を読むのに時間がかかる。
あ、それはそうだね。やっと認識が一致したね。譜読みに2ヶ月かかったこともあるな。自慢ではないが。
そうだろう、君のような不幸な男をこれ以上増やさぬためにも、我々は「如何にして」現代の複雑な作品を効率よく演奏するかを長年研究してきた。ドモホルンリンクルどころではない。その成果が上がり小難しい現代曲を読む「反射能力」がついたわけだ。
と、まあこのような次第なのだ。反射能力。たしかにそれで現代物を読譜する力は少しつきそうな気もする。
しかし、では古典派やロマン派の曲は、あるいはラヴェル、ドビュッシーはどうなるのだ?これらの曲を弾くために必要な基礎訓練はもう必要ない、ということなのだろうか。きっとそう考えているのだろう。
彼らは、音程感だとか、リズム感をいったん獲得したら、遺産相続のように、持ち続けると思っているのだろうか。第一、僕たちが獲得したのか、怪しいものだ。
現代の複雑な作品(あくまで表面上の)を対象にして考案された訓練法は、いわゆる古典に対してマイナスの影響は与えないのだろうか。僕は充分すぎるほど与えうると思っている。
仮に影響を与えないのだとしたら、ソルフェージュをはじめとする訓練自体が無駄だろう。さっさとやめちまえばよい。
そもそも、ソルフェージュ科というものが独立しているのが合点ゆかぬ。そこでの決定事項は、きっと他の科から干渉されないようになっているのだろう。むろん、これは憶測だ。今までその点について、はっきり聞いたことはない。これからも問題にする人はいまい。
演奏から離れた演奏の基礎訓練、どうだい、常識的に考えてもあり得ないではないか。
大昔吉田兼好が言ったことから、人間なぞ一歩も出ていないのだ。(出ていないことが悪いという意味ではない)
大路を狂人の真似だといって走る人は狂人であるとね。僕たちの精神だのはそういったものだとなぜ認めないか。音程を取らずに歌う、馬鹿をさせるな。 N響の外国公演について書いたように、今日の演奏家は、音程感をもっているとは言いがたい。それを何とかしたいと思っているところへ、音程を取らずに、だとさ。
繰り返すが、聴音ができるから、もう音程はとれる、という救いがたいオプティミストは必要ないのさ。それとも誰か僕に得心がいくように説明してくれないか。