ソルフェージュの代表的なものは聴音であろう。演奏の才能を伸ばそうという気持ちを持つ人は、聴音も習っている。殊にピアノやヴァイオリンのように子供のうちから習い始める楽器の人たちの間では、聴音も習うことが常識といった空気である。
僕はそこでもKYだ。ちょっと意味合いが違う気がするけれど、まあ良い。
先達てソルフェージュについて書いたことを補足する形になるが。
いったいあの「演奏法」はどこから来たのだ?誰がはじめたのだ?これもパリ音楽院かい。やッパリ、きッパリ、みえッパリ。ピアノの世界では(イヤな言い方だな)バリバリ弾くという表現があってね、これ何とかなりませんかね、あまりに非音楽的でしょう。
脱線しそうになるとEnterキィを押す。助かるなぁ。これが原稿用紙だったら、クシャクシャに丸めて棄てるところだ。改行では何だか気が治まらない。パソコンを棄てるわけにはいかないから、改行とともに気持ちを整理する。
弾き手の立場になってご覧なさい。付点四分音符とか十六分休符とかがあったらどんなに神経を使うか。
僕の入試のとき、聴音の演奏担当はさる有名教授だった。それが、メロディー試奏のとき、はたと止まってしまった。僕は心の中でヒヒヒと笑った。今では申し訳なく思っている。あれは一種いやな緊張を強いられるものです。因みにそのころは「実演」であった。今は公平を持するために録音によるのではないか。
あのころは良かった。すべてが本物志向だった。手作りの味があった。止まったのがなにさ。人間だもの、ミスもあるわい。
おっと、冗談を真に受けられるといけないし、書いていて不安になった。録音になっていた時期もある。でも、もしかしたら悔い改めているのかもしれない。後で生徒に訊ねて確認しよう。
確認を後回しにして続けよう。聴音の時の演奏(演奏とは言えないが)と同じ調子でモーツァルトなりショパンなりを弾いてみたまえ。教師の唇から血の気が失せて、髪の毛はメドゥーサのように逆立ち、人によっては絶叫マシンと化するであろう。「音楽でしょう!」
どうしてこんなことになるのだろう。所謂上級者のための問題集をCDできいたことがある。僕の耳は大したことないと思った。昔は自信があったのだ。僕のレベルが落ちたのか、周りのレベルが上がったのか。おそらく両方だろう。
同時に、上級者になるには阿呆になりきらないといかん、と思い、これ以上阿呆になるのも周りに迷惑をかけるような気がして、その道を断念した。
僕がこれらの曲を弾いたならば、上級者用の曲も、あら不思議と思えるほど取りやすくなることは確実だ。僕は聴音用の弾き方の常識を無視して、できる限り美しく弾こうとするから。
間違えないで欲しい。美しく弾くというのは、思い入れたっぷりに、情緒豊かに弾くことではない。ただ自然に弾くという意味だ。
そもそも聴音用の曲は、なぜすべて!の曲があそこまで無意味なのだ?だれか、一曲でもよい、思い出の曲というのを挙げてみればよい。誰もいまい。
作った人が(作曲家と呼ばれるのは当の本人が不本意だろうからこんな風に言っておく。僕は実は人情味にあふれているのだ)何とかして間違えさせよう、と作ったものだから、動機からして美しくなるはずがない。難易度が高いこと即ちひっかけが多いことで、要らぬ複雑さばかりが増えるはめになる。オネゲルにこの点を問いただしたいところだ。(この意味が分からない人は「複雑」と題した記事をみて下さい)
たとえば、ふつうの楽曲では四分音符に書くところを、付点八分音符と十六分休符にして、演奏者は演奏者でそれを文字通りに弾き分けようと、痛ましい努力をする。
これは音楽の聴覚の訓練と、何らかの関係があるだろうか。皆無だ。悪影響はある。まず時間の無駄だ。また、聴くという行為について、安直な、画一化された観念を植え付ける。時間の無駄は、無駄話を減らすことによって、またはこんな駄文を読むことを止めることによって補えるが、聴くことを安直に考えるようになっては,ことは重大だ。
聴き取りやすく弾くと点数に差がつかない、というのが本音さ。とにかく点数に差をつける。こうした怨念とでもいうべき考えのために、多くの熱心な生徒は精を出しているわけだ。本当は「正解」は幾通りもある。
例えば。
インヴェンションのヘ長調の演奏を聴音したとする。8分音符で書こうが、16分音符で書こうが構わないだろう。16分音符と休符で書いたって良い。どれもが正解だろう。そうなったら、大抵の人は8分音符で書くようになるだろう。
繰り返すが、僕はソルフェージュ無用を主張しているわけではない。まずパリ音楽院に抗議し、それをただ有り難がって受け取ってくるお人好しに抗議し、一度たりとも耳がよいというのはどういうことだ、と考えたこともない善良な人にちょっぴり抗議したい。
その上で僕の想像でいうしかないが、パリでは日本のような「厳密な」演奏はなされていないのではなかろうか。知っている人がいたら教えて欲しい。やはり彼の地でも厳密に行われているのならば、僕も潔く、彼の地も救いがたいと認めよう。