昨年11月元西鉄ライオンズのエース、稲尾和久さんが亡くなった。僕自身の体調がきわめて悪い時期だったこともあり、このニュースはえらくこたえた。
西鉄ライオンズは子供のころの憧れのチームだった。僕は佐賀県の生まれで、九州のチームという単純且つ自然な理由からだった。それに、なんといっても強かった。テレビもない時代である。いや、あった。僕はそこまで古い時代の人間ではない。我が家に無かっただけである。どんなひいきの仕方をしていたか、今ではもう覚えていないのだが、ベーゴマやメンコにもライオンズの選手の名前が入っているのを手に入れては、負けてまきあげられるのを繰り返していた。
当時はただひいきのチームというだけであったが、長じて引退した後の選手達を見るにつけ、この人達にいっそう惹きつけられるようになった。
とくに稲尾さんと豊田泰光さんにはつよく惹かれた。
サッカーの日本代表の話題の折りにも触れたことだが、この人たちの個性の強さは際だっていた。その個性を封じ込めずにすんだのは、三原脩という不世出の指導者であった。
世に伯楽ありて、しかるのち、千里の馬あり、というのはまさに、三原脩とその下でプレーする選手のことを指すように思われる。このころ三原さんは40歳を少し過ぎたばかりであることを考えると、人としての器が余程大きかったのだと認めざるを得ない。
この人の度量の大きさを示すはなしをひとつ紹介しよう。
後年、近鉄バッファローズの監督に就任した三原さんは、コーチに仰木彬さんを招いた。仰木さんは野茂や、イチローを「育てた」人として今や知らぬ人も少ないが、西鉄主力の中では、決して目立った選手ではなかった。
主力の中の主力は中西太選手で、桁外れの選手であった。彼は後に三原さんの娘さんと結婚して家庭を持っていたのであるが、仰木さんはある時中西さんと大げんかして西鉄を飛び出したのである。
娘婿と大げんかした男を、平然とすぐさまコーチとして招く。自分の中に本当にはっきりした、人間に対しての価値基準がなければ、できない芸当だ。
選手の性格を見極めて、対応を自在に変化させたという。見極めるためには麻雀まで利用したそうである。
稲尾さんと豊田さんはまったく違う性格であったが、共通するのは自然さだったように思う。
選手としての実績は稲尾さんが勝るが、そのとてつもない実績を誇らしげに語ることはついになかった。つねに含羞を帯びていた。自身の実績について褒め言葉が続くと、人なつこい照れ笑いをするのが好ましかった。
豊田さんは、元来が頭の良い人なのだろう。興味のある人は(野球選手に関心のない人も、人間の顔に関心はあるだろうから)一度彼の名前で検索してみて欲しい。豊田泰光さんといいます。HPに新人王を取ったときの写真がある。この人は早生まれだから、18歳の時ということになるか。実に立派な表情だ。僕は顔の表情を信じるのだ。学歴なんぞは信じないが、顔と声の表情は信じるのだ。
強く、正直な目だ。
現役を退いた後は、おもに野球評論を書くことに活躍の場を求めた人だ。文章もうまい。視点が曇らず、野球を通して人間が見えている。なかなかできないことなのである。
人は誰でも生まれ持った性格はあるだろう。しかしそれを大きく育てられるかは、指導者次第だともいえる。指導者とは、ものを直接教えることのみを指すのではないことは、三原監督と選手達をみれば明らかだろう。現に豊田さんは「三原さんの技術論はまったく当てにならなかった。アドヴァイスをもらうとかえって調子が悪くなった」と言っている。
もうひとり例を挙げておこう。
大下弘という選手は不世出の大選手であったが、この人が4番を務めていた。寂しがり屋で、近所の子供達を集めて野球チームを(現役の大選手が!)つくって、ニコニコするような人だったという。
チームの若手を可愛がり、下宿させる選手もいたそうだ。そして奥さんも含めて麻雀や花札で殆どのお金をむしり取ったという。奥さんが博才があったらしい。
下宿していた選手は泣きの涙だったようだが、いざ一人前になって大下家を出るとき、彼ら名義の貯金通帳が渡された。むしり取られたお金は全部そこに貯金してあった。若い奴らに金を持たすとろくなことにならない、と夫婦で考えたのだそうである。
ホロリとする逸話だ。ではどうして僕はこんな他愛もない話を信じるか?ここでも大下選手の引退試合後の挨拶を、もっと詳しく言えばその時の内容と声を聞いたからだと答えよう。
繰り返すが、僕は耳で判断する。目も耳ほどではないが信じる。肩書き、地位などすべて信じない。
若い稲尾さんと豊田さんの画像を載せておく。豊田さんの強い目を見てもらいたい。