牧野伸顕(大久保利通の子供で、吉田茂の義父)が外国公使たちとの会食などで英語を使って話し始めると、英国人までがじっと耳を傾けたという。しかし彼の英語はけっして流暢なものではなく、考え考え話すようなものだったそうだ。それでも、居並ぶイギリス人達は、これほど美しい英語は久しく聞いたことがない、と感嘆の声をあげたという。
こんな話を、英語教師たちはどのように思うか聞きたいものである。
最近はあまり騒がれなくなったが、英語教育は小さいうちにした方がネイティブな発音が身に付く、と英語の早期導入を促す声はいまもあるだろう。
すべて授業を英語で行う、中高一貫校などもできたようである。興味津々と言ったら人が悪すぎるが、その後どうなっているのやら、知りたいね。素朴な疑問だが、その学校では雑談や喧嘩も英語でやるのかね?もしそうだったら気色悪いなぁ。その場合、生徒はマクドナルドに行っても英語でしか注文できないかもしれない。可哀想だな。BigMac,please!なんて言って周りから奇異の目で見られるのか。
僕なぞは、以前VOLVOに乗っていたころ(日本でね)、VOLVO社に電話して「ヴォルヴォ」と言ったのにまったく通じない。「ボルボ」と言わなければならなかったのだ。いくら「僕の方が正しいはずだ」と叫んでも駄目である。
そういえば、夜行列車でアムステルダムに行き、駅のインフォメーションで宿を取ろうとして(今だったらネットで予約だ。世の中がすっかり変わったと実感する)、一睡もできず朦朧とした頭なのに、書かれている案内がえらくよく分かる。余計なことを考えなければ素直に理解できるのか、と思ったが、ふと気付いたら日本語で書いてあった。そんなこともあった。
でも、喧嘩まで英語でするくらいでなければ、すべての学科を英語でした場合、理解が追いつかないはずである。
ネイティブの発音というが、それはそこまでこだわっていくべきものか。まずそれを疑って良いだろう。
イギリス人はアメリカ人の英語をなんと品がないと思っているだろう。しかしアメリカ人はオーストラリア人の英語をひどい英語だと思っているのだ。あるオーストラリア人の学者が「アメリカに論文を出すと、英語に関して直すように指導が来る。屈辱的だ」と話していたそうだ。
鈴木孝夫さんという言語学者がいる。この人の著作を僕はいくつか読んで、面白かった。主に英語界(変な日本語だ。そんな言葉があるのかどうか。しかし日本にはそう言いたくなるような世界があるような気がする)の重鎮だそうだ。
この人の説をいちいち取り上げることは(今は)しない。ひとつ紹介しておく。英語の教科書は、使う学校の地域によって内容を変えるべし、という。なぜなら、僕たちが外国に行ったとき、サン・フランシスコについて尋ねられることはないが、横浜について、東京について、仏教について、トヨタについて尋ねられるのだから。
鈴木さんによれば、英語の早期教育を声高に叫ぶのは、2流以下の英語人(英国人ではないよ)に限られるという。
これもなぜかは分からないけれど、なんとなく肯けてしまう。
彼は、日本なまりの英語で何が不足かと問いかけている。インドネシアの英語もインドの英語も英語だ、という常識が説かれているだけだが、この常識がなかなか通用しない。
ドイツに行った当初、ペラペラ喋っている日本人の横にいると気後れしたものだ。しかしある程度喋ることができるようになり、会話の内容も聞きとれるようになると、日本語での会話同様、くだらないことを話しているのだと、これまた常識的なことを発見した。
そう、外国語の能力は、日本語の能力に比例する。くだらぬことを流暢に喋ったところで、くだらないやつだということを、大いに宣伝するようなものだ。くだらぬことを重々しい口調で喋った方がまだユーモラスな分、ましかも知れない。こんな発見をしてしまったおかげで、僕のドイツ語の能力は重々しいまま終わった。
そう考えてみれば、最初に挙げた牧野伸顕は立派だと思わざるを得ない。