季節はずれのインテルメッツォ(続)

音楽、文学、絵画、スポーツ、シェパード等々についての雑記帖。

良寛と万葉集

2008年05月11日 | 
以下書くことはすべて、水上勉さんの「良寛」による。

と書き出して、はたと困った。良寛について書くことも、水上さんについて書くことも、何もない。

こういったのが、一応良心をもって文章を書こうとして、つまり知ったかぶりをせずに出典を明らかにして書こうとして、型どおりに断りを入れただけの一番よい例だ。

大学教授たちの論文にはこの手のものがうようよしている。それを批判していても同じ撤を踏むのさ。本当に常に肝に銘じておかないとね。

僕がふと思い立ったのは、次のようなたったひとつのことである。

良寛は周知のように、所謂こじき坊主だったが、常に文芸の道に励むことを怠らなかった。和歌を詠むだけではなく、俳句も詠めば、漢詩も作った。越後の片隅に住みながら、その名は江戸にまで聞こえた。江戸で有名な学者達も時折訪ねて問答をしていたという。その辺りが、今日の感覚では分かりづらい処だろう。

何のメディアもない時代なのに、どうやってその才覚というか、学識は人に知れるようになったのだろう。

それとも良寛はブログでも書いたのか?いま、有名になるにはどうしたら良いでしょう、と考えている(若い)人へ。良寛に訊ねなさい。

そうそう、思いだした。ある人が、和歌が上達する秘訣を訊ねたところ、万葉集を読むだけでよろしい、それをよく読むように、と教えた。(良寛自身は古今集もよく研究したようである)

「しかし、万葉集は難しすぎる」と質問者が言ったところ、「なに、判るところだけ読んでいけば良い」と答えたそうだ。こういう理解の仕方が僕はじつに好きだ。その通りなのだ。

芸事でもスポーツでも外国語でも、入り口は広い方が良いに決まっている。難しさはむこうから勝手にやってくる。

読書百遍、意自ずから通ず、というでしょう、これなども同じ源泉から出たことばです。音楽についても、空威張りのように難しいことを言う人を僕は信じない。

レッスンでも良寛風にできるかな。「先生、ここが難しいのですが」「おお、おお、弾ける所だけ弾けばよいのじゃ」と毬をつきながら言ったらどうかな。通用しないなぁ、やっぱり。

借問する

2008年05月09日 | 音楽


受験生がいると、いくら僕がいい加減でも過去問くらいは目を通す(こともある)。ここ数年東京芸大のソルフェージュが多少変わってきて、それは入学後の授業について学生から聞いた内容と合致する部分もあるので、ちょっと触れておきたい。

最近の問題の中に、音程を取らずにできるだけ速く(任意の)音部記号で読みなさい、というのがある。なにやら新しい勉強のような感じがするでしょう。

これは何のことだろう?いったいなぜ「音程をつけずに」読む必要があるのだろう。音程をつけられないのを「音痴」というのではなかったっけ?最近はわざわざ音痴を作り上げようとしているのか。

重松君、君は時代遅れも甚だしいな。もはや音程がとれない生徒なぞこの学校を受けには来ないのだよ。

知らなかった。みんなとれるのか、音程を。でも信じられないな、演奏を聴く限り。まあイイや。で、音痴をつくる運動はどういうわけなんですかい?

君は時代遅れといわれた真の意味を理解してはおらぬようだな。フフフ、聞きたまえ。いくら君でも現代音楽のメッカがパリで、その中心がパリ音楽院であることくらい知っているだろう。

あ~、僕はまたメッキかと思っていました。

ちゃちゃを入れずに黙って聞け。そこを中心とした作曲界で作られるものは君もよく知っているとおり楽譜を読むのに時間がかかる。

あ、それはそうだね。やっと認識が一致したね。譜読みに2ヶ月かかったこともあるな。自慢ではないが。

そうだろう、君のような不幸な男をこれ以上増やさぬためにも、我々は「如何にして」現代の複雑な作品を効率よく演奏するかを長年研究してきた。ドモホルンリンクルどころではない。その成果が上がり小難しい現代曲を読む「反射能力」がついたわけだ。

と、まあこのような次第なのだ。反射能力。たしかにそれで現代物を読譜する力は少しつきそうな気もする。

しかし、では古典派やロマン派の曲は、あるいはラヴェル、ドビュッシーはどうなるのだ?これらの曲を弾くために必要な基礎訓練はもう必要ない、ということなのだろうか。きっとそう考えているのだろう。

彼らは、音程感だとか、リズム感をいったん獲得したら、遺産相続のように、持ち続けると思っているのだろうか。第一、僕たちが獲得したのか、怪しいものだ。

現代の複雑な作品(あくまで表面上の)を対象にして考案された訓練法は、いわゆる古典に対してマイナスの影響は与えないのだろうか。僕は充分すぎるほど与えうると思っている。

仮に影響を与えないのだとしたら、ソルフェージュをはじめとする訓練自体が無駄だろう。さっさとやめちまえばよい。

そもそも、ソルフェージュ科というものが独立しているのが合点ゆかぬ。そこでの決定事項は、きっと他の科から干渉されないようになっているのだろう。むろん、これは憶測だ。今までその点について、はっきり聞いたことはない。これからも問題にする人はいまい。

演奏から離れた演奏の基礎訓練、どうだい、常識的に考えてもあり得ないではないか。

大昔吉田兼好が言ったことから、人間なぞ一歩も出ていないのだ。(出ていないことが悪いという意味ではない)

大路を狂人の真似だといって走る人は狂人であるとね。僕たちの精神だのはそういったものだとなぜ認めないか。音程を取らずに歌う、馬鹿をさせるな。 N響の外国公演について書いたように、今日の演奏家は、音程感をもっているとは言いがたい。それを何とかしたいと思っているところへ、音程を取らずに、だとさ。

繰り返すが、聴音ができるから、もう音程はとれる、という救いがたいオプティミストは必要ないのさ。それとも誰か僕に得心がいくように説明してくれないか。


関連付けたい心理

2008年05月07日 | Weblog


小学校のクラス会だけは出ることにしている。担任の先生が定年を迎えられたのを機に、小規模ながら、毎年地元で開かれている。

最初のクラス会が開かれた時、出席しようか、迷った。元来、集団を懐かしむ気持ちが皆無なのだ。初めて出会ったピアノ弾きを、ほらほら、あなたの後輩ですよ、なんて、僕がその人に親しみを持たねばならないかのように紹介される。こんなのは困るな。ほらほら、こちら方のお名前も重松さんですよ、仲良くなさいね、なんて言われたって当惑するばかりだろう。そんな調子だったら、佐藤さんなんて名前だった日には、みんな仲良く独立国でも作らなければなるまい。

6年のときの担任の先生は、当時あんちゃんのような若さで、女子と違ってこちらは単なるガキだった。ただ気の優しい人だったという印象以外無かった。女子は、なんといってもませているから、あることないこと、深読みするのさ。

ひとつ、僕がドイツに住んでいる間に、級友が亡くなった。その際、先生があれこれお世話をなさったという風の便りを聞いた。その話を聞いたとき、先生の人となりが分かったように思う。

正直に言うと、僕は懐かしさから出かけたのではないのだ。定年を迎えたという先生がどんな歳の重ね方をしたのか、知りたく思ったのだ。かわいげがないのである、簡単にいうと。その結果、何ごとも起こらない限り毎年出席しているのである。先生はよい人である。そう感じてはじめて懐かしさが生じる。

何十年も経つと、人間はいろいろだと思わずにはいられない。小学校時代にはお互いまったく接点もなく、心の底から無視を決め込んでいた奴が、人情味のある男なのだと発見したり、面白い。そして、なるほど、彼の身になってみれば、僕について好感を持つはずがなかった、と合点が行く。

中には小学校の教員になったのもいる。野球でそれなりの活躍をして、いまだに「現役」だというのもいる。

そんな人たちの中から出てきた話題をひとつ取り上げる。

データに拠ると、所謂いじめはサッカーをやっている子の間で多く、野球をやっている子の間では少ないという。「だから」サッカーが流行らなかった方がよかったのだ、ということであった。

データに脱帽しよう。僕は議論を中途半端にすることはできないから、クラス会の席上ではただ黙って聞いていた。議論の場ではないから、座を荒らすのはいやだものね。第一、野球大好きというか、野球に人生をかけているような人までいるのだ。よほど上手にものを言える人でない限りうまくいかないさ。

野球というのは、どんな嫌われ者でも、かならず打順が回ってくる。言い換えれば、殊勲打を打った者はその時はヒーローになる。どんな人にも同じ回数、ヒーローになるチャンスがある。

サッカーは常に同時進行しているゲームだから、プロはともかく、子供のレベルだったら、ボールを回さないことで充分にのけ者にできる。それが一番の理由で、サッカーを「していた」からいじめが多くなった、というのはずいぶん短絡した見方だ。

でも、学校の教員をしている友人をはじめ、熱心な人ほどそういうデータ自体は数多く集めていて(耳にしている程度かもしれない)、サッカーさえなければ、という空気に支配されていくのは、典型的な今日の有様だと思った。ひとことだけ「でも、サッカーがあれほど盛んなヨーロッパやブラジルで、日本式のいじめが頻発していないのはなぜだい?」と聞き返したら、みんな「そうかぁ」と口ごもってしまった。要するに、データを読み切れていないのさ。

なにか問題が起こったとき、直接の犯人(原因)を見つけると安心する傾向があるからね。人の心なんて、そう簡単に理由通りに動いているものではない。テレビの「コメンテーター」とよばれる輩のしたり顔を見ていると、はり倒したくなることが多い。だから僕はテレビを見ない。


紅茶の話

2008年05月05日 | 旨いもの


以前紹介したぜにさわコーヒー店は、実は紅茶もめっぽう旨い。どうも、こうやって書いていると、通ぶっているようで、気恥ずかしいのだが。でも、旨いものは旨い。

去年は紅茶の当たり年で、素晴らしいものが入った。連続当たり年ということはまぁ考えられないから、今年は期待しないで、と言われていたのだが。それが、今年も素晴らしいのだという。去年びっくりしたクラスのものも入るが、業者が、今まで経験したことがない、と感嘆するものも入るという。

此を書いているのは、実は、4月22日だが、この時点ではブログでも発表するのはちょっとまずいのである。

この紅茶は、ヒマラヤ中腹から来るそうだが、業者はインド人から、危険だから行くなと止められているのを強行するらしい。そこまでしても、何しろたいへんなクオリティーなので、法外な値段をふっかけてくるかもしれず、その場合は断念するのだそうだ。

つまり、手にはいるかどうか分からず、手荷物ぎりぎりの10キロだけしか入らず(輸送にかかる日数をできる限り短くしようと思えば、自分の手で運ぶ以外無い)そのうち500グラムだけがぜにさわに入るのだという。何人かの常連に分けるにしても、ひとり10グラム~20グラムがせいぜいだ。売り出す前に僕がブログ上で書いてしまったらたいへんだ。

この文章が公開されているときは、もう僕は手に入れているわけだ。そうか、感想を挿入すればいいのだな。

本当に良い紅茶は、淡い色だったりする。日本では、紅茶の色をしていない、と拒否されることが多いそうだ。色が付かないじゃないか、ということらしい。

去年、飲んだ口当たりが、まったりしたものがあった。どうしてあんな口当たりになるんだろうと訊ねたが、よく分からない。でも、新鮮な野菜でも、一種の粘っこさがある、そんなことと似ているのではないか、というのがぜにさわさんの意見であった。そんな気もする。

ここから先がリアルタイムだ。

美味かった。びっくりした。ほんのり甘い。紅茶の香りの中に甘みが溶けている感じだ。まったり感はなく、すっきりしている。とはいえ、どこかにとろみを感じる。香りにも薄い甘みがある。

以前、渋味なんていうものは、酸化している、つまり腐っているということです、と聞いてなるほどそうだよなぁと感心した。ここで扱っている紅茶は、手広くできないから、とほんの3,4種類で、ふだん置いてあるのはありふれたものといいながら、渋味のあるものなぞない。

それでも、こんなに違うと、もう唸る以外にない。何というかな、ヒマラヤのどこかに、桃源郷というものは実際に存在するのではなかろうか、と思うほど、現実感がないのにしっかりとしたものがある。

一煎目は香りが一瞬のように鼻孔をかすめ、二煎目は香りは弱まるが味はしっかりある。その点は日本茶で言われることとまったく同じだ。

味覚も音楽同様説明はしきれないので、むしろ自慢話のようになる。どうだ、いいだろう。

データ

2008年05月03日 | Weblog
インターネットなどという、得体の知れないものを利用して、こうして文章を書き連ねているのだが、社会全体が、その有効な利用法を考え出してはいないように思う。

年金の問題の報道などでも、役所の金の流れがあまりにも複雑、且つ不透明で、本当の姿をちょっとでもとらえたかったら、国民は仕事を捨てて、データを収集する以外ないように思えてくる。それくらい複雑だ。

僕は実に平凡な国民で、それにふさわしく、一連の不祥事(かれこれ5,60年続いている点だけが気になるが)に不平不満を述べるだけの男だ。

僕は経済とか政治の方面にはまったくの無知であるから、ニュースを見て人並みに憤慨する以外方法がない。あらゆる乱脈と破廉恥が横行しているのは、いつの時代も変わらぬだろう。実態は深く隠されているのもきっと変わるまい。

しかし、ちょっと考えると、現代には実態を知る、少なくともかなり正確に知る方法自体はいくらでもあるのではなかろうか。

たとえば市の会計報告はと、ためしに自分の住む市の会計報告を調べてみたら、歳入と歳出がデンとあるだけと言った方がよい。もしかしたら、詳しく知る方法はあるのかも知れない。当然あるだろう。

でも、僕のような門外漢が、ふと思いついて、検索をかけたらこんなものを見せられるだけだ。実態の解明にはほど遠い。

ちょっと覗いてみたら、市の予算をどう使ったか、細目にわたって知ることができれば、僕のような思いつきだけの人間でも、行政の予算の使い道を詳しく知るではないか。それを知ろうと思うならば、市民ネットワークだの、なんとか運動だの、かんとか会だのに属す以外ない、といった不健康な事態から脱却できるではないか。

何か、僕たちの生活に密着したことが問題になる場合、マスコミのとる態度に納得がいかない。

消費税を例にとろうか。必ず出てくる声は、ヨーロッパ諸国に比べると、日本の消費税は格段に低い税率だというもの。これは本当だ。しかし、これを報道するのは正当か、と問うひとはあまりいないようだ。

また、消費税を上げることに賛成ですか?という世論調査もある。これなどは、さっさと止めちまえばよい。誰も喜ぶやつなんぞいないのだから、結論は見るまでもない。

サッカーで、ゴールした選手に「得点したときのお気持ちはいかがでしたか?」と訊くでしょう?答えは聞くまでもない。嬉しいです、これさ。その選手に代わって僕が返事してあげても良い。こうした予定調和的な質問が単発的にある。中田選手なんかは、それが我慢ならずに、「フッ、それは嬉しいですよ、それで?」といった反応をしていて、嫌う人もいたが、彼の言うことが正しい。

ちょうどそんな感じの質問だ。いくら嫌でも財政が本当に破綻していて、方法が他にないなら、税を取る以外あるまい。しかし、消費税だけを諸外国と比較するようなごまかしを、メディアがするようでは駄目だろう。

所得税、何とか税、(ほら、とんでもない経済音痴でしょう)の他に、例えば高速道路の通行料金、これだって僕たちの側からみたら、税と見なして良いわけでしょう。ドイツは無料だし、有料の国でも非常に安い。

これらをトータルな収入と考え、支出の細目をチェックする、それがメディアの仕事だろう。

僕には、消費税の引き上げに賛成か、反対かを判断する材料すら与えられていない。なぜそうした素朴な疑問を持つ人が少ないか、分からないね。

税が上がってどう思いますか?嫌ですね。どうです、試合後のインタビューと似ていないですか?答えはすでに用意されている。

グールド 2

2008年05月01日 | 音楽


僕の音楽生活の中にグールドが入ってきたのは、ずいぶん後になってからだ。

ドイツ時代も後半になってから、僕が勝手にバッハ三部作と呼んでいる映像がテレビで流れた。これは今日では簡単に手に入る。ただ、順番が違う。テレビではまず、「楽器の問題について」というタイトルのものが放送された。僕は大袈裟ではなく、雷に打たれたような気がした。どうしても記録しておきたくて、第2回目の放送前に、と大急ぎでビデオの機械を買ったのだから、その興奮の度合いも分かる。

一見異様な姿勢、身振りが、実は根底では理に適っていることがすぐに見て取れた。この番組はモーサンジョン(というのかな)という音楽ジャーナリストとの対話形式をとっているのだが、この2人の会話というか、関係がまた素晴らしく良い。

最初にドイツ語字幕で見て良かったと思う。日本で買い直したものは当然日本語訳だが、インタビュアーはへりくだった言葉遣いをし、グールドは一段高いところからものを言っている。ところが実際にはグールドの魅力のひとつに、大変シャイな饒舌というものがあって、一言でいえば、とにかく正直な人間なのだ。

モーサンジョンも、そういうグールドと音楽を心から愛する男で、日本語訳からかいま見えてしまうような、奉る態度なぞ、どこにもないのだ。それでいて自分の前にいる人間が非凡な人だ、とはっきり知っている。こういう当たり前のことが日本にいると難しくなるのだろうか、と勘ぐりたくなる。

グールドの極端に低い姿勢は、腕を運ぶ機能に特化したところからきている。真似をしてみたらよい。彼は例えばバッハのフーガの各パートをできる限り同じ平面で聴きたいと願う。ピアノという本質的に弱く、ロマンティックな楽器でポリフォニーを扱う場合、通常はあるパートを主として響かせ、他のパートをその主たる音の蔭に融けあわせるのだ。フーガに限らず、それがピアノの扱い方である。

グールドのような扱い方は決してオーソドックスではない。(それと弾き方自体はある種、オーソドックスなものを含む、ということは別の話だ。「弾き方」という観点から見れば、昨今のピアニストはもう、オーソドックスもミニチュアダックスもない)

よじりあって天に昇るかのようなポリフォニーは、ゴッホの糸杉を思いださせた。こんな比喩を使ったならば、通常のポリフォニーの扱いは、レンブラントの絵のように、光の背後には無限の影があると形容しても良いだろう。

僕がグールド風に感じるか、感じないか。それはどうでもよろしい。かれはこの上ない正直さを持って、実は平均律だってプレリュードは余計なものだと思う、と主張し、ベートーヴェンを揶揄し、モーツアルトをこきおろす。なるほど、この人の演奏だったら、それはそうだろう、と僕を納得させる演奏をしている。意見ではない。それだけが大切なのだ。

この「隠れロマンティカー」の発見は嬉しかった。犬だけを連れて湖畔を歩く姿もよい。