橋本治とナンシー関のいない世界で

「上野駅から夜汽車に乗って」改題
とうとう橋本治までなくなってしまった。
平成終わりの年にさらに改題してリスタート。

東京新聞「探訪・都の企業 デフレ奮闘編」から考えた「わけあり」デフレ社会

2010-07-19 18:29:37 | 国内情勢
夏休みに突入したのを機に(って別に関係ないが)今日からたまに、新聞やら雑誌やら書籍やらを読んで気になった事を書いてみようと思う。私は今新聞は東京新聞しかとっていないので、他紙は喫茶店や、たまたま駅売りで買ったときにしか見ないが、まあその辺の網羅感はごかんべんください。

東京新聞では、昨日から1面で「探訪・都の企業 デフレ奮闘編」というのをやっている。昨日(上)今日(中)ときたので、あす(下)でこのデフレ奮闘編は終わるのだと思うが、読みながら、紹介された企業のさまざまな工夫と努力に感心しつつも、どこか割り切れないものを感じている。

(上)のテーマは居酒屋。
金融危機後、関西発の280円均一の居酒屋に客を奪われた都内の居酒屋が250円均一に踏み切った話と、客が食材を買って自分で調理する居酒屋の話が採り上げられていた。

前者は徹底したコスト削減で、値下げを実現したよくあるパターン。取締役は「安いだけではだめだ」と語り「超低価格」と「質」という矛盾したテーマに取り組む構えだと締めくくられている。ユニクロ型をめざしてるんだろう。

後者はある意味「場所貸し」で、人件費もかからない。にもかかわらず客の一人単価は3000円前後と、決してデフレ価格ではない。
デフレ時代の隙間産業というか、デフレだ不況だといいながら、まだまだ3000円そこそこは娯楽に支払える、自称ビンボー、自称清貧、自称スローライフの存在する日本ならではのアイディアだとは思う。まあ、そういう意味で、デフレの中で奮闘している企業なのかもしれない。

そして、連載2回目の今日(中)で紹介されたのは、「箱に穴があいていたら三千円引きます」という「箱破損」で割引をする秋葉原の家電ネット通販の会社だ。このサービスは「わけありくん」というんだそうだ。
「わけあり」という言葉、通販ではもう聞き飽きた言葉だ。
「わけあり」がとうとう箱の傷にまで及んだかと、少々げんなりした。

このサービスのきっかけは「箱に傷が付いている」という客からのクレームだったそうだ。部長は「商品自体に問題がなくても、消費者は箱のかすり傷やへこみに敏感です。店頭渡しなら気にならない傷でも、ネット通販の場合、とりわけ消費者の目が厳しくなる」と話している。

そうなんだ・・・。
店頭渡しだろうが、通販だろうが、輸送される過程のどっかで傷がついたことに変わりはないのに、そんな消費者心理の違いがあったとは・・・。
自分も箱の傷、少しは気になるけど、通販と店頭との違いなんて意識した事無かった。店員の顔が見えないという事は、こうも客の側が強気になれるのかとちと驚いた。

また、10万円以下の商品の場合、「かすり傷」なら千円、「大きなへこみ」は二千円、「穴があいていたら」三千円の値引きになるそうだ。
でも考えてみたら、箱に穴が空くほどの何かが起きた可能性の或る商品を、例えばコンピュータなんかの場合、たった三千円値引きされても買いたいと思うだろうか???
なんだか、その辺の客のクレームの付け方と損得勘定のあり方が、私には理解できなかった。

売る側は、「わけあり」で売り上げアップと喜んでいるし、買った側も三千円安く買えたと喜んでいて、ある意味これがウインウインの関係っつうやつかもしれない。かすり傷くらいだったら私も千円引いてもらえれば嬉しいし、コンピューターとかじゃなく、扇風機とかあんまり精密そうじゃ無いもんだったら、箱に穴開いててもノープロブレムだ。

しかし、それでもどこか、本当にこれでいいのかと疑問を持ってしまう・・。

 本来は、箱に穴が開いてたら、輸送上の問題があったんじゃないかという話になるんだと思う。でも、いちいちそれで運送会社をつつくのもめんどくさい。そこで、それを不問にして、その追求コストとしてかかるはずだった分を、「値引き」としているという風にも、見方を変えれば考えられる。実際にそうかどうかは別としてだ。
客と店の間でも、本来ならクレームをつける所が、それを先回りして値引きすることでクレームへの対応コストを無くしている。
たしかに、プラスマイナスゼロで、経済的にはきれいに収まっているようにも見えるが、そういう人間と人間の交渉のコストやモヤモヤを全部金銭に換算してしまってもいいのだろうか。
多分、そういう思いが私を釈然とさせないのだと思う。

それにさ、かすり傷くらいでクレームつけんなよ!さすがに穴はしょうがないけど・・。っていう素朴な感情が一番大きいのかもしれないけど。

「箱破損のわけありくん」の話が長くなったが、今朝の記事ではもう一つ、都内デパートの「わけありセール」についても採り上げている。

「賞味期限まで余裕があるのに販売しなくなった商品1000種類40万点」を3割~7割安で売るのだとか。バイヤーは「お客様が納得して買うのなら・・」と言っているらしいが・・・。って、なんだよ、この「賞味期限まで余裕があるのに販売しなくなった」って、しかもそれが「40万点」って???意味分からん。これって売らなかったら、捨てる運命にあったってことですか?

多分、売れなかったから眠ってた商品なんだろう。

そうなんだよなあ・・・。
私はここに今の日本の(世界かもしんないけど)問題があるんだと思う。

『そもそも、売れもしないダメな商品作り過ぎなんじゃないのか!』
『もっと考えて、ちゃんとしたものづくりすべきなんじゃないのか』
『作りゃいいってもんじゃないだろ!』

いやいや、中には良いものなのに売れなかったという商品もあるだろう。

しかし、多分それは、売る側がその商品の良さをちゃんと理解して、それをちゃんと消費者にアピールできていなかったんではないのか?

そう、
『商品への愛情や思い入れが足りんのとちゃう!』
『ちゃんと自信もって売っとる?』だ。

もちろん、そうではない、しょうがないパターンもあるとは思うが、この大量生産大量消費を前提とした薄味の世の中が、そうした「40万点」を生んできたのではないだろうか。
だからこれを「わけあり」って呼んでいいのか・・・。

以前、テレビ朝日でやっていた通販を題材にしたドラマ「コールセンターの恋人」で、明太子の「わけあり」商品をテーマにした回があった。
不況にあえぐ明太子業者が、通販の販売権を取りたいがために、正規の商品までわざと潰して「わけあり」商品を作っていたという話だった。悩みながら手塩にかけた明太子を潰す従業員たち。見かねた社長の娘がコールセンターに匿名で抗議の電話をかけるのだ。
実際にこうした事例があるのかどうかはわからない。

しかし、「わけあり」ということがもはや、本来は発見の産物である「わけあり」を超えて、「作られたわけあり」、つまり「わけあり」でもなんでもなくなりつつあるのも今のデフレ商売の一面だと思う。

以前はバッタもん屋とされていた、100円や300円の激安ショップも、ちゃんとそのために生産された商品を置く100円均一ショップになってしまった。「わけあり」はあのいかがわしい感じがよかったのに、それさえもデオドラント化されてしまった感じだ。

確かに、いくつかの100円ショップには、そうしたいかがわしさや、妙な面白さも残っていて、私もよく覗きにいく。面白いデザインのものや、懐かしいものもあって、上野の某店などは、現代社会の真空地帯みたいな不思議な魅力を発揮していると勝手に思っている。
でも、そうしたオモロい商品は100円じゃなくともいいでしょと思うのだ。
100均には、私なら、200円以上でも買うと思う商品が時々あるのだが、それを200円にしたら、もはや売れないのかなあ・・・。

東京新聞では、今朝の記事に「“わけあり”逆手に活路」という見出しを付けている。

でもこれは本当に「逆手に活路」なんだろうか?

これまでの記事で紹介されたデフレ奮闘事例は、デフレな世の中にどっぷり浸かった消費者の購買行動を前提に、「活路」を見いだしたものだ。
もちろん私もこの努力を否定はしない。
しかし、この状況が続けば、いわゆるデフレスパイラルに陥って、ゆくゆくは皆が小さなパイを奪い合い、全員共倒れなんてことになりはしないのだろうか?

いつか誰かが、こうした消費者の購買意識を変えるべく、全く違ったアプローチのものの売り方に挑戦せねばならないのではないだろうか。

そして、今、そのアプローチは、海外に活路を見いだすということになりつつあるようだ。今朝の新聞でも、たまたま喫茶店で読んだ毎日新聞ではユニクロの柳井社長のインタビューが載っていた。彼が取ろうとしている方法がまさにそれだ。
しかし、それは一時的に奪い合うパイを広げるだけのことではないかと私には思える。
先に述べた全く違ったアプローチというのは、また別の方向にある気がするのだが、その辺、経済に携わる方達はどう考えているのだろうか?

というわけで、東京新聞のデフレ奮闘編(下)最終回?が明日どういう結論で終わるのかを期待しつつ、次はユニクロと全く違ったアプローチについて考えてみたいなあ・・なんて考えている。