久々に自分のいくつかのブログの過去の記事を見ていて、この記事を再読した。
以前からあったこのブログに「what is value?~ナンシー関のいない世界で」
というタイトルをつけリニューアルした時に書いた記事だ。
今やほとんど読まれることもないけど、なんとなく今こそ読んでもらいたいな
と思ったので、ここに再掲することにした。
では、以下再掲記事です>>>
先日(09年8月)、本屋に行くと、ナンシー関リターンズという本が平積みに並んでいた。
なぜ今、とも思ったが、最近私の生活範囲にナンシー関的なものが枯渇していたので、
懐かしさのあまり購入した。中身を見て溜飲が下がった。
これはサブカルとは言えないのではないか。
これは社会批評の王道なんじゃないか。
芯食いすぎちゃってシャレにならない。
ここまで社会批評性が高かったとは。
時代が変わろうとする今、この本を手に取ったことは、必然だったのだ。
ナンシー関は20年近く前の文章で、
今の日本のいろんな問題点の根っこの部分をことごとく言い当てている。
遡上に載るのは、『加賀まりこ司会の「夜のヒットスタジオ」。
誰がまりこのお眼鏡にかなうかが見物』だったりするのだが、
テレビの中の芸能人の人間模様に視聴者(世の中)がどう反応し、
それが何を意味するのかを的確に語っている。
その文章で引用されている加賀まりこの台詞が『工藤静香は好きだけど、酒井法子は嫌』
というのも今見ると感慨深い。
そして、ナンシー関は言う、
「テレビがどんどん下世話になっていく。」
さらに言う、
「私たちは事の重大さに気づいていない。」
全然古びていないとか、今でも通用するとか、
そんな上から目線の評価なんておこがましい。
もう普遍的な文章なのだ。
芸能というのは、常に大衆の生活の通奏低音みたいになっている。
芸能に対する大衆の反応を読み解く事は、政治に対する大衆の反応を読み解くことよりも、
ある意味、的確に社会を分析できる。そういう意味で、彼女は社会批評家なのだ。
世の中の人々の無意識に眠る深層心理なんてお見通し。
文章からは、世の中のあまりの鈍感さに一人ため息をつくナンシーの姿が見える。
でも、ため息をつくばかりでもなくて、ちゃんとイイもんめっけて、
世の中の‘まんざらでもなさ’も感じている。
批評の正しいあり方である。
このナンシー関の文章をよんで、
「『まんざらでもない』ものを見つける事が人間の幸せなんじゃないか。」
とあらためて思った。
「まんざらでもないもの」は、「ため息をつきたくなるもの」の山の中にまぎれていて、
ぶつぶつ言いながらその山をかき分けて見つけなければいけない。
それはアグレッシブな作業ではない。地味な日常的な作業だ。
『ナンシー関のいない世界』に今私たちは生きている。
世の中は、「まんざらでもない」を見つけることを忘れた。
そして、大味な「イケテル」を手に入れようとした。
そんな私たちは、壁にぶち当たり、とうとう「change」というところにまで来てしまった。
「まんざらでもない」小さな幸せの見つけ方を失った世界は、
壁にぶち当たるしかないのだろう。
「まんざらでもない」小さな幸せは、大きな理想のないところではみつからない。
そして、厳しい批評のある場所でのみ見つけることができる。
「まんざらでもない小さな幸せ」をみつけることは、そんなに生易しいものではない。
けれど、「change」後の混乱するであろう世界を生き延びるには、
その生易しくはないスキルを磨くしかないのだと思う。
そこで、歴史的衆院選の行われる今日から、このコラムを始めようと思う。
ナンシー関のいない世界でも、楽しく生きていきたいからね。
最後にもう一つ。
この「リターンズ」に触発されて、
本棚から引っ張りだした既得のナンシー関本でこんなフレーズを見つけた。
ここから引用
『番組寸評
昨今、テレビではいろんな番組を制作しているようだが、
無防備に私たちの生活になだれ込んで来るそれを道徳的観念を持って制御するには、
批評能力が必要だ。当局の設置した臨時低俗番組徹底追放協議会および運動本部が、
この状況を打開せんとすべく運動部員の鋭い感性を結集し、
今ここにビバーンと送る現代人のバイブルです。毎朝読んで肝に命じて下さい。』
~引用ここまで(「ナンシー関大全」より)
高校生のとき(?)に友人と作っていた新聞の一節。
完敗だ。ナンシー関と競っても勝負にならないのは分かっているが、
負けたとしか言えないような先見の明である。
テレビに対して、「無防備に私たちの生活になだれ込んでくる」という表現を使う
モノの見方の的確さ。
「打開せんとすべく」の後に「ビバーンと」が来るところが、彼女の誠実さの証である。
わたしもこうした誠実さをめざしたいものである。ずんばります。
再掲ここまで>>>
このときはまだテレビの仕事をしていた。
そして今は辞めて、新しい仕事を模索している。
しかし、どんな仕事をしようが、批判精神は重要だ。
この初心を忘れず生きて行きたいと思う。
まんざらでもないものを探して。
以前からあったこのブログに「what is value?~ナンシー関のいない世界で」
というタイトルをつけリニューアルした時に書いた記事だ。
今やほとんど読まれることもないけど、なんとなく今こそ読んでもらいたいな
と思ったので、ここに再掲することにした。
では、以下再掲記事です>>>
先日(09年8月)、本屋に行くと、ナンシー関リターンズという本が平積みに並んでいた。
なぜ今、とも思ったが、最近私の生活範囲にナンシー関的なものが枯渇していたので、
懐かしさのあまり購入した。中身を見て溜飲が下がった。
これはサブカルとは言えないのではないか。
これは社会批評の王道なんじゃないか。
芯食いすぎちゃってシャレにならない。
ここまで社会批評性が高かったとは。
時代が変わろうとする今、この本を手に取ったことは、必然だったのだ。
ナンシー関は20年近く前の文章で、
今の日本のいろんな問題点の根っこの部分をことごとく言い当てている。
遡上に載るのは、『加賀まりこ司会の「夜のヒットスタジオ」。
誰がまりこのお眼鏡にかなうかが見物』だったりするのだが、
テレビの中の芸能人の人間模様に視聴者(世の中)がどう反応し、
それが何を意味するのかを的確に語っている。
その文章で引用されている加賀まりこの台詞が『工藤静香は好きだけど、酒井法子は嫌』
というのも今見ると感慨深い。
そして、ナンシー関は言う、
「テレビがどんどん下世話になっていく。」
さらに言う、
「私たちは事の重大さに気づいていない。」
全然古びていないとか、今でも通用するとか、
そんな上から目線の評価なんておこがましい。
もう普遍的な文章なのだ。
芸能というのは、常に大衆の生活の通奏低音みたいになっている。
芸能に対する大衆の反応を読み解く事は、政治に対する大衆の反応を読み解くことよりも、
ある意味、的確に社会を分析できる。そういう意味で、彼女は社会批評家なのだ。
世の中の人々の無意識に眠る深層心理なんてお見通し。
文章からは、世の中のあまりの鈍感さに一人ため息をつくナンシーの姿が見える。
でも、ため息をつくばかりでもなくて、ちゃんとイイもんめっけて、
世の中の‘まんざらでもなさ’も感じている。
批評の正しいあり方である。
このナンシー関の文章をよんで、
「『まんざらでもない』ものを見つける事が人間の幸せなんじゃないか。」
とあらためて思った。
「まんざらでもないもの」は、「ため息をつきたくなるもの」の山の中にまぎれていて、
ぶつぶつ言いながらその山をかき分けて見つけなければいけない。
それはアグレッシブな作業ではない。地味な日常的な作業だ。
『ナンシー関のいない世界』に今私たちは生きている。
世の中は、「まんざらでもない」を見つけることを忘れた。
そして、大味な「イケテル」を手に入れようとした。
そんな私たちは、壁にぶち当たり、とうとう「change」というところにまで来てしまった。
「まんざらでもない」小さな幸せの見つけ方を失った世界は、
壁にぶち当たるしかないのだろう。
「まんざらでもない」小さな幸せは、大きな理想のないところではみつからない。
そして、厳しい批評のある場所でのみ見つけることができる。
「まんざらでもない小さな幸せ」をみつけることは、そんなに生易しいものではない。
けれど、「change」後の混乱するであろう世界を生き延びるには、
その生易しくはないスキルを磨くしかないのだと思う。
そこで、歴史的衆院選の行われる今日から、このコラムを始めようと思う。
ナンシー関のいない世界でも、楽しく生きていきたいからね。
最後にもう一つ。
この「リターンズ」に触発されて、
本棚から引っ張りだした既得のナンシー関本でこんなフレーズを見つけた。
ここから引用
『番組寸評
昨今、テレビではいろんな番組を制作しているようだが、
無防備に私たちの生活になだれ込んで来るそれを道徳的観念を持って制御するには、
批評能力が必要だ。当局の設置した臨時低俗番組徹底追放協議会および運動本部が、
この状況を打開せんとすべく運動部員の鋭い感性を結集し、
今ここにビバーンと送る現代人のバイブルです。毎朝読んで肝に命じて下さい。』
~引用ここまで(「ナンシー関大全」より)
高校生のとき(?)に友人と作っていた新聞の一節。
完敗だ。ナンシー関と競っても勝負にならないのは分かっているが、
負けたとしか言えないような先見の明である。
テレビに対して、「無防備に私たちの生活になだれ込んでくる」という表現を使う
モノの見方の的確さ。
「打開せんとすべく」の後に「ビバーンと」が来るところが、彼女の誠実さの証である。
わたしもこうした誠実さをめざしたいものである。ずんばります。
再掲ここまで>>>
このときはまだテレビの仕事をしていた。
そして今は辞めて、新しい仕事を模索している。
しかし、どんな仕事をしようが、批判精神は重要だ。
この初心を忘れず生きて行きたいと思う。
まんざらでもないものを探して。