ノック無用の高齢者日記(パークゴルフ??)

令和に成って退職の日々の出来事

何故か?雨にもまけずを思い出した

2013年07月30日 | 日記・エッセイ・コラム

7月29日

 

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昨日は日曜出勤、今日は8時まで残業

皆、飽きずに、投げずに良く頑張るな

あ、俺も居れてね?

で、何故か思い出した

宮沢賢治の「雨にもまけず」

Miyazawa_kenji

 

雨にも負けず

 

 

 

  
風にも負けず

 

 

   
雪にも夏の暑さにも負けぬ

 

 

   
丈夫なからだをもち

 

 

   
慾はなく

 

 

   
決して怒らず

 

 

   
いつも静かに笑っている

 

 

   
一日に玄米四合と

 

 

   
味噌と少しの野菜を食べ

 

 

   
あらゆることを

 

 

     
自分を勘定に入れずに

 

 

    
よく見聞きし分かり

 

 

   
そして忘れず

 

 

   
野原の松の林の陰の

 

 

     
小さな萱ぶきの小屋にいて

 

 

     
東に病気の子供あれば

 

 

 

 

    
行って看病してやり

 

 

    
西に疲れた母あれば

 

 

    
行ってその稲の束を負い

 

 

    
南に死にそうな人あれば

 

 

    
行ってこわがらなくてもいいといい

 

 

     
北に喧嘩や訴訟があれば

 

 

    
つまらないからやめろといい

 

 

   
日照りの時は涙を流し

 

 

     
寒さの夏はおろおろ歩き

 

 

    
みんなにでくのぼーと呼ばれ

 

 

     
褒められもせず

 

 

    
苦にもされず

 

 

    
そういうものに

 

 

    
わたしはなりたい

 

 

。。。。。。。。。。。。。。。。。   

 

宮沢賢治がそう人なのかと思ったら

 

そう言う人に成りたい

 

そう言う人が居たみたいです

 

 

 

。。。。。。。。。。。。 

 

 

 

以下の文章に出てくる斉藤宗次郎とは、宮沢賢治作の『雨にも負けず風にも負けず』の実際のモデルとなった人です。

 

斉藤宗次郎は、岩手県の花巻に1887年に禅宗の寺の三男として生まれました。彼は、小学校の教師になりますが、内村鑑三の影響を受けて聖書を読むようになり、洗礼を受けてクリスチャンになりました。しかし、それからが大きな戦いのはじまりでした。         

 

 当時は、キリスト教は、「ヤソ教」「国賊」と呼ばれていました。彼は洗礼を受けた時から迫害を受けるようになり、石を投げられ、親にも勘当され、小学校の教師を辞めさせられてしまいました。それだけではありません。迫害の手は、家族にまで及んできました。近所で火事が起きたとき、全然、関係がないのに、嫌がらせで、放水され、家を壊されたことがありました。何度もガラスを割られることもありました。そして、さらにひどい迫害が起こりました。9歳になる長女の愛子ちゃんが「ヤソの子供」と言われてお腹を蹴られ、腹膜炎を起こして亡くなってしまったのです。亡くなる時、愛子ちゃんは、讃美歌を歌って欲しいと言い、讃美歌を歌うと、「神は愛なり」と書いて天に召されたそうです。

 

 宗次郎はそのような苦しみの中で、神様に祈りました。そして、彼は「御心がなりますように」とくじけることなく神様を信じ、神様に従い続けたのです。普通なら、迫害のない違う土地へ移るところですが、宗次郎は、むしろ、その土地の人々に神様の愛を持って仕えることを選びました。牛乳配達と新聞配達のため一日40キロの配達の道のりを走りながら迫害する人々にキリストを宣べ伝えました。10メートル走っては神様に祈り、10メートル歩いては神様に感謝をささげた話しはあまりにも有名です。

 

 そして、子供に会うとアメ玉をやり、仕事の合間には病気の人のお見舞いをし、励まし、祈り続けました。彼は雨の日も、風の日も、雪の日も休むことなく町の人達のために祈り、働き続けました。彼は「でくのぼう」と言われながらも最後まで愛を貫き通したのです。そして、1926年に彼は内村鑑三に招かれて、花巻を去って東京に引っ越すことになりました。

 

 花巻の地を離れる日、誰も見送りには来てくれないだろうと思って駅に行くと、そこには、町長をはじめ、町の有力者、学校の教師、生徒、神主、僧侶、一般人や物乞いにいたるまで、身動きがとれないほど集まり、駅長は、停車時間を延長し、汽車がプラットホームを離れるまで徐行させるという配慮をしたというのです。実はその群衆の中に若き日の宮沢賢治もいたのです。

 

 それは、彼が「御心がなりますように」と祈り、神様の御心に従った強い信仰と、どこまでも人々を愛し続けた愛の業がそうさせたのだと思います。この人こそ、東に病気の子供あれば行って看病してやり、西に疲れた母あれば、行ってその稲束を負いという宮沢賢治の詩にあるようなことを普通にやっていた人でした。そういう宗次郎の生活ぶりを見ていた、宮沢賢治が、「こういう人になりたかった」という思いを込めて、「雨ニモマケズ」という詩を書いたのではと言われています。

 

 

 

。。。。。。。。。。。。。。

 

間違いなく、こういう人に成れない

 

さて明日も頑張って行きましょ~

 

 

 

遠藤木型

 

http://www.endokigata.com/