地方の女たち

夜の街で出会った女達と男達

神山繁を見習いたい

2017-01-17 16:04:46 | 最近のニュースから
俳優の神山繁さん(87)が亡くなっていたニュースで、故人の考え方が紹介されていました。

「葬式無用・戒名不要」
本人の意思を尊重して、葬式は行わず、ごく近親者だけで見送った。

有名人などがよくやる「お別れの会」もやらないみたいです。

当人は亡くなる前に骨壷を用意してたと、、、、

たぶん、そこに骨を入れ墓に・・・それ以外は何もしなくて良いと言う事なんでしょうネ。

このスタイル・考え方は私が理想と思っている形です。

しかし、現実には周りとの付き合いが有ったり、亡くなった人が広く事業なんかをしてて、それを引き継ぐ者はそれなりの葬式をしなければならない雰囲気が出てきます。

また、亡くなる人が意思を示さなかったり、、、意思を示したが変わったりする場合もあります。

私の父親の場合は
「その種の事はする人が自由にすれば良い」と言っていました。

しかし、この考えは亡くなる一年ほど前からの話で、ほぼ100年生きた父親の99年間は立派に葬式をすると言う考えでした。
遺言などでは新しい方が優先されますので、亡くなる一年前からの考え方を採用すれば良いと思うのですが・・・。

息子として親の気持ちを考えると難しい判断になります。
「その種の事はする人が自由にすれば良い」と言うのは、身体が不自由になり面倒をかけている状態の考えです。

今これだけ面倒をかけているのだから、死んでまで迷惑をかけるのは辛い。 
これが考えの変化の原因になっている訳で、本質的な考えはとは違っていると判断できます。
それを感じた息子(私)の判断は迷いましたね~

葬式ってねぇ~ それだけで終わらないんです。
これを形式的な方法でやってしまうと、大袈裟なようですが末代まで影響します。

葬式に来てもらった親戚には「精神的・借り」が発生して、それを返す相手はオジオバの数だけ発生します。
その上に仏教なら、お寺さんとの付き合いも永遠に続きます。

戒名なんかも「院」を使うと、永遠に「院」を使うことになり費用も高くなります。

結果から・・・葬式を形式通りにやってしまえば、自分の子や孫に負の遺産を残してしまうのです。
金銭やとられる時間が嫌で、思い切ってその付き合いを止めるにしても、精神的にはかなり厳しいですヨ。

故人との別れを惜しむ人達が、埋葬や納骨する場所に集まり見送る、これで充分だと思うのです。

そこには宗教も義理も体裁もありません
あるのは故人を思う気持ちだけです。

故人の家族は家で食事でもしながら、故人の写真や遺品を見て、思い出話に花を咲かせば良い。

故人と釣り・ゴルフ等で交際が有った人は、残った人達が趣味で一緒になった時に、故人の思い出を語り合えば良い。

そう言う姿が本来あるべき姿で、故人となった人との付き合いと思うのですが・・・

亡くなった人との付き合いは・・・細く・長くが良い
その為にも最初に太く・大きくしない方が上手く行くと思います

阪神淡路大震災

2017-01-17 01:09:58 | 日記
1995年1月17日・・・正直な所、年代は忘れていますが月日は忘れる事はありません。

この年は15日が成人の祝日で、日曜日と重なっていたので、翌日(16)の月曜日も休みでした。
当時は大阪で住んでいて、両親が居てる徳島には月に一度のペースで帰っていました。

この年はお正月を大阪で過ごし、10日を過ぎた頃に徳島に帰ったのです。
15・16日の連休を終えて、何時もの様に16日の深夜(翌日の朝になる前)に帰る予定でした。

何故そんな時間かと言いますと、、、
車が少ない時間帯だと2時間以内に行き来できるし、特に徳島から大阪の場合は帰る前に友達と酒を飲んでいる可能性が高く、少し休憩してから出発するので、そんな時間になるんです。(飲酒運転ですね)

衝撃的な写真は多くありましたが、高速道路が横転した映像に驚いた人は多いと思います。
朝の5時46分の出来事ですから、、、

いつもだと、、、かなり際どい時間にあの高速道路を通っています。

ところが、、、17日の午前1時頃に母親の誕生日を思い出したんです(それまで忘れてた)
それに酒がまだ少し残っている感じもしたし・・・・。
まぁ、大阪に急ぎの用事もないし、朝に母親の顔を見てから帰ろうかと予定を変更して寝たんです。

・・・と、ここまでは地震の後で 「あの時、何処で居てた???」 と言うのが挨拶みたいになっていたので何度か話をしたのですが、、、、

実は、、、、連休で仕事が休みの夜のオネェチャンのマンションに転がり込んでたんです。
もちろん、当時は大阪の家で待ってる女は居てたのですが・・・・。

後日、大阪に帰り。
帰る予定日だったし、連絡も取れないので心配したと言われたら・・・
これは一生黙っておこうと・・・(別れたので解禁)

この阪神淡路大震災の思い出は、頭の中で何時もここから始まりますが、口に出る思いでは朝に親の所に行って 「大丈夫か?」 と、尋ねる所から始まります。

大阪に自分の住まいはあるし、神戸には姉の家族が生活しているし、決して他人事では有りませんでしたが、幸いにも他の人たちと比較すると軽い損害で済み、怪我などもありませんでした。

その当時の記憶は沢山有りますが、やはり22年も経つと、出来事の時系列はバラバラになっています。 そして笑える話になった事の方が記憶に多く残っていますネ。

地震発生後に徳島から和歌山経由で大阪に帰りました。そして、すぐに被害の大きい地区に行ったんです。
きれいな神戸の街が汚れてスラム街のようになってました。あの倒れた高速道路も間近で見たし、直ぐ横には焼け爛れて放置された車が、、、住宅地に入ると多くの人がブルーシートを屋根に掛けていました。

駅のトイレや路地裏には排泄物が溢れていた、鉄骨の柱が曲がって今にも倒れそうな家も多く見ました。
10数階のビルの窓ガラスが割れて無くなりカーテンが揺れているのも見ました。

後日、大阪から神戸の姉の家に行きました。 まだ主要な道は通行止めで、六甲山の山を車で行ったが、通常1時間足らずが混雑で8時間近くかかりました。

姉の家は屋根の瓦はズレ、柱と壁は離れ、通し柱は基礎からズレていた。
それでも基礎の下の土が無くなり浮いていた隣の家と比べると被害が少ない。
倒壊して命を落とさなかっただけ良かったと思う外に方法は無く、現実にはどうしようもない状態でした。

数ヵ月後には仕事で神戸に行く事もあり、柱にヒビの入ったビルに入る時は不安でした。毎日の様にある余震で壊れるんじゃないのなぁ~と、それでも住民達は他に行く所も無く危ないビルで生活していました。

この地震でビルの挫屈(ざくつ)と言うのを知りました。 鉄筋のビルで揺れと自重で建物の高さの真ん中くらいの部分で柱が壊れるんです。
神戸の歓楽街も店を再開するところがポツポツ出てきた。しかし、ある地区は通れないと、そこでは犯罪が多発してて被害にあった女の子もいたり、、、。 商店街では自警団が結成され、ドラム缶で火を炊いて暖を取りながら店番してたが、その人たちの目つきは鋭く殺気立っていた。

震災後に見た・聞いた話でマイナスな事はキリがありません。

そんな中・・・

市場で仕事にかかる前にトイレに行ってたときに地震が発生した人はある意味大変でした。
入ったトイレは旧式で、和のスタイル。
しゃがんでいると頭に水が・・・次の瞬間にドサッっと大量の水が・・・
ケツをまくった状態で全身がびしょ濡れ、何が起ったか解らなかったらしい。
そう、水洗トイレの水のタンクが上にあるトイレだったのです。

急いでトイレから出ると、市場の人々はバニック状態
本人もびしょ濡れで寒いし、着替えも無くてパニック状態。 少し間があったが車に行ってエンジンをかけて暖をとり、服も乾かしたら・・・なんか臭う、、、、ケツも拭かずに飛び出したんですねぇ~
まぁ、そうなるだろうけど・・・・。

知り合いの尼崎の一家は家を失い、火事で焼けたビルの中で寒さをしのいでいたが数日で限界に達して、大阪の私の借りてるマンションまで歩いて来た(徒歩じゃ、けっこうな距離です)
子供連れで大変だったのは解るが・・・子供も親も顔がススで真っ黒だったらしい(ウチの女の話)
その姿がテレビで見る戦時中の様子と同じで、まるでドアを開ける直前につけたような感じだったとか。。

確かに焼け跡で暮らせばススもつくだろうし、鏡も水も無い状態だから仕方ないのだけれど・・。
まぁ、そんな姿で一家が尋ねてきたら「何?????」と一瞬はなるかもネ

こんな話が出来るのも、幸運にも身近な人で亡くなった人が居ないからです。

どの震災も、人や財産を失った人は多く、簡単に励ます言葉が見つかりません。
ただ、誰にでも出来る事は忘れない事です