天地を 照らす日月の 極みなく あるべきものを 何をか思はむ 

わびぬれば 今はたおなじ 難波なる みをつくしても あはむとぞ思う

5.18衆院文科委、武田邦彦氏意見陳述より

2011年05月18日 | まつりごと



 まず最初は、日本の原子力発電所の自然災害に対する安全性であります。2006年に日本の原子力発電所は新しい地震指針というものが決まりました。そのときにどういうことが決まったかといいますと、まあ余り安全じゃなくていい、残余のリスクというのを認めようじゃないか、そういうことでした。これが現在では想定外という言葉で言われておりますが、その基準には「残余のリスク」という言葉で説明されております。それで、残余のリスクを認めるということはどういうことかといいますと、言ってみれば、建設側、電力会社の想定した想定外のことが起これば、その結果が三つ明記されております。第一に、施設が壊れること、第二に、大量の放射線が漏れること、第三に、「著しい」というのは説明書に書いてあるんですけれども、著しく住民が被曝すること、この三つが起こることを認めなければいけない。そういう指針がこれは正式に通っております。
 ということはどういうことかというと、日本国が、原発は想定外であれば倒壊して、大量の放射線が漏れて住民が被曝する装置であるということを構わないと認めたことでありまして、私は大変にびっくりいたしました。それまで比較的、私はずっと原子力の仕事をやってきましたので原子力をもちろん推進しておったわけですが、これはもうだめだと。何でだめかといいますと、もともと壊れるようなものをつくって、大きな災害になって、それで原子力を続けるなんということは技術的にはもう全然できないことでありまして、私はやや批判的になりました。つまり、国策で進めている技術が大災害をもたらすということが技術的、論理的にはっきりしたということでして、それはもうとてもやっていけないというのが私の感想であります。
 その後、震度6の柏崎刈羽原子力発電所が壊れたのが2007年、今回、2011年に同じく震度6で福島第一原発が壊れ、さらに、余震で女川と東通原発が電源を失ったりいろいろなトラブルに巻き込まれる。その中でも、特に青森県にあります東通原発は、震度4で全電源を失う。私は技術者でありますので、そういうような技術的な作品といいますか、そういうものをつくる、また運転するということ自体が極めて大きな問題であろうというふうに思っています。
 それで、浜岡原発がこの前停止になりましたか。原子力発電所の自然災害による弱さというのはどこにあるかというと、いろいろな原因があるんですが、一番大きいのは、原子炉は守られているけれども、そのほかは守られていないということなんです。例えば、今度、福島で電源系が落ちました。そうしますと、多くの人が津波に備えなきゃいけない、こう言っていますけれども、そんなものじゃないわけです。原子力発電所は極めて複雑なものでありますから、地震と津波に備えればそれで終わりというものじゃありませんで、熱交換器のパイプが外れても同じことが起こりますし、計測系に間違いがあっても同じことが起こります。したがって、どこに問題があるかというと、原子炉は比較的強く守られておりますが、原子力発電所全体の安全は非常に弱いということです。
 これはなぜかといいますと、私は地震指針のときに専門委員で地震指針の審査に当たったわけですが、その冒頭に私が、この指針は原子炉を守るための指針なのか付近住民を守るための指針なのかという質問をしております。この意味は、原子炉だけを守るのと、原子力発電所全体を守り、かつ付近住民が被曝しないということを守るのとでは、設計上大きく違ってまいります。どちらをとるかということが極めて重要な問題であろうというふうに思っています。
 そういうことで、私の技術的な見解、飛行機が欠陥があって墜落しますと、その時点でその飛行機の使用を一応やめて、検査をして原因を明らかにしてから飛行機の運航をするというのが技術的な常識であります。福島原発では、論理的に原子力発電所が壊れるという設計どおりのことが行われたわけです。その設計どおりのことが行われてそれで壊れたわけですから、これはやはり日本のほかの原発を全部とめて、そして設計の見直しを行って、安全の見直しを行って再開するのが、技術的には正しい方法であろうと私は思っています。それによって原子力発電所が安全に動くことができる。飛行機も、かつては墜落しましたが、現在では非常に安全に運航しているわけですけれども、それは、そういった技術的な観点がはっきりしているということが技術の進歩をもたらしているのであろうと思っています。
 それから、論点の第二ですけれども、これは、非常に原子力発電所というのは奇妙で、今言いましたように、壊れるのがわかっているものを動かしているという問題が一つと、もう一つは、技術の問題は必ずしも100%安全ということはあり得ないわけです。したがって、必ず、事故が起こったら何をするかということは決めておかなければいけないわけであります。
 この前、ある電力会社とプライベートな会合をやりまして、私はこういうふうに質問しました。原子力発電所が壊れたら、我々の市は水源を失うんだけれども、電力会社はペットボトルを用意されていますか。していないと。そのうちには空間線量率が上がって子供たちを疎開させなきゃいけないけれども、電力会社は疎開先の小学校をどこに用意していますか。用意していないと。そのうちには土地が汚れて、土地の土を持っていかなきゃならないけれども、その土を持っていくところはどこにありますか。ないと。
 私は、現在の社会で技術的に適用されている巨大技術というのは、すべからく、その実施者がそれに何かあったときにちゃんとその始末をする責任を持つ、もしくは実施能力を持っているがゆえに認められているというふうに思っています。ある技術をやって製品をつくって、僕は技術を長くやってきましたけれども、それが壊れたら何も知らないというふうな技術が存在する、それがしかも国策でやられているということは、非常に私は違和感を感じます。
 それとともに、きょうは放射線の御専門のお医者さんがおられてちょっと言いにくいんですけれども、事故が起こる前、我々は、原子力発電所の安全を保つために、常に一年一ミリシーベルトを基準に設計してきたわけです。あらゆることをやってきたわけです。事故が起こって、突然一年百ミリシーベルトまで大丈夫なんと言われたら、設計の根幹が崩れます。一年に百ミリシーベルトまで安全なら、原子力発電所は突然安全に変わります。私たちが原子力発電所の安全技術というのをつくるときは、まず第一に、医療関係者が一年何ミリシーベルトまで大丈夫だということを基準に設計を始めるわけです。
 したがって、そこが揺らいだら、原子力発電所というものをつくること自体がもともとできないと私は思いますので、今回の事故が起こって、何ミリシーベルトまで安全だなんという話が出てくるということ自体が、私はもう非常に違和感を感じております。これでは技術をつくることはできませんです。
技術は必ず、それのもたらす社会的結果において、それを防ぐための対策を主体として設計するものでありますから、例えば自動車でも、時速が千キロまでというのだったらまた設計が変わってきますし、時速十キロに制限されたとなったらまた変わってくるわけです。だから、そこのところは非常に根幹であって、現在そういうことが、三・八マイクロシーベルトであるがどうとか、それを議論しているというようなことでは、私は巨大技術をやることはできないと思っています。
 それから三番目の論点は、原子力基本法が成立いたしまして、原子力は常に民主、自主、公開でなければいけないという原則がありまして、私は技術者として今までやってきまして、この原則があるという前提で原子力は安全に技術として展開できる。つまり、現在では一番大きな問題は公開でありますが、これは、原子力基本法ができたときに日本学術会議が、原子力についてはあらゆるプロセスですべて公開というような要請をしておりますけれども、私も技術者の一人として、公開がなければこのような大きな技術を安全に運行するということはもうほぼ不可能であるというふうに思いますので、その点も御考慮いただければと思います。

5.18衆院文科委、参考人質疑より

2011年05月18日 | まつりごと
武田参考人 生体材料の劣化ということからいいますと、赤道地方の人たちがなぜ色が黒いかといいますと、紫外線が強いので、それに対する皮膚がんの防御のために色が黒いわけであります。その土地、その土地でその環境に合わせて最も長寿なように生体は防御いたしますので、世界のどこが放射線が高いから日本人もそれと同じであるというようなことは、科学的には少なくとも論理的ではないと思います。生体の防御というのを科学的に見れば、例えば日本ですと、現状においての、年間1ミリシーベルトにおいての防御系を形成しているわけでありまして、それにプラスされる部分については、原則としては、個人は自分の力では防御できないというのが通常であります、それの程度がどのくらいかという問題がありますから。
 それから、一年1ミリシーベルトという国際的な基準は、非常に長い間の医学的もしくは総合的な検討の結果、国際勧告になっていて、さらに、日本の文部省、厚生労働省などの主要な法律は、すべて一年1ミリシーベルトで健康というものを管理するということでやってまいりました。それを、この緊急時に別の議論をするというのは、相当難しいというふうに思っています。

 初動の態勢で政府と経済産業省あるいは東電の対応が、的確に、法令どおりにされていなかったのではないかという疑いが明らかになってまいりました。時系列を含めてだれがどのように対応したか、その根拠は、法律は何なのか、ここをやはり調査をしていかなければいけないなと思っているんです。この点についての見解をお伺いしたいと思います。

武田参考人 日本の原子力発電所は、ほぼ震度6以上ぐらいの地震で原子炉がいろいろな形で壊れるということを前提につくられているわけですから、その意味では、技術の問題よりか、そういう設計基準をもって原子炉をつくった、原発をつくったということがまず第一であろうと思います。
 電源が切れて循環水が通らないということになりますと、循環水が切れたという状態から熱の量は計算できます、それに従って水の蒸発量も計算できます、それから、腐食によって水素が発生する量も直ちに計算できます。したがって、循環水が切れた時点で、一日後とか半日後に水素爆発するとか燃料が溶融するということは予想できるわけであります。これは、装置が大きいことによってできることですね。
 それから、もしもそこの時点での風向きというのがわかっていれば、一日ぐらいの余裕がありますから、何号炉はいつ爆発する、それによって放出する量は何ベクレルである、これも計算の方法がもう確立しておりまして、予算を使ってそういう計算のソフトも完成しております。それに気象庁がもし力を尽くして風向きを推定したら、確実にどこの地点がどのくらいの汚染を受けるということがわかります。そこからもしも計画的にバスとかそういう手段で避難させるとすると、変な話ですけれども、原発自身は、原発という機械は壊れますが、住民は被曝することなく退避をすることができる。
 そういうことができたという点では、初動における情報の公開、特に技術的な情報の公開が著しくおくれたというふうに思います。3月末には燃料が破壊されているということはおおよそ検討がついておりました。それが二カ月後に発表されるということがあって、いろいろな対応がおくれた。例えば、東電の最初に発表した、4月中旬に発表した工程表というのは、既に東電が炉内での燃料の破壊がわかっていながら違う工程表を発表する、そういうことになりましたので、全体的な技術の初動態勢というのは、大変に人間的な要素が多かったというふうに思っています。

 最も重要なことは、風向きを伝えるということであります。それにSPEEDIが役立つわけでありまして、SPEEDIは、もちろん即刻、迷うことなく公表すべきであり、それはやはり、原子力発電所という、非常に危険だけれども国益に即しているという技術を開発する上の一番下の要件といいますか、そういうものであるということか思います。これをもしも手続上何かのかげんで隠したとすると、それは被曝した人の病気に直接かかわることですから、私のような科学をやっている人間にはとても考えられないような措置であったというふうに思います。

 日本は、工業力もあるし科学的な力もあるし、もしも日本国挙げて、要するに、現在福島県が汚れているというのは、あれは十年、二十年全然使えない汚れじゃなくて、単に放射線を出す粉が表面にあるだけですから、その粉を取れば、福島というのは一年ぐらいで住めるようになると僕は思うんです。今、汚れているところをそのままにして野菜をつくったり、汚れているところをそのままにして20ミリシーベルトで頑張れというのは、いかにも方策がなさ過ぎると思うんです。取れるものなんですから、土の上にただぱらぱらと乗っているものです。
 チェルノブイリでは、大体、放射性物質というのは20年間で20センチしか沈んでいないわけですよ、余り雨が降るといけないんですが。現在のところ、例えば梅雨の前であれば、放射性物質というものは表面にしかないんですよ。それをローラーのように取ってしまえば、言ってみれば掃除機でいいわけです。事実、郡山の小学校で土が3.3マイクロシーベルトからぐっと五分の一ぐらいに下がったわけですから。それは何をやったかといったら、ブラシでわあっとかきまぜて、その表土をさっと取っただけなんですね。
 したがって、日本の国土は非常に重要だし、技術的には取り得るので、放射性物質で汚れたから十年、二十年は郷土に帰れないとか、20ミリで我慢しなさいというのは一切やめて、できるだけ早い機会に放射性物質そのものを取ってしまう。
 要するに、事態としては、福島原発にあった放射性物質、これは物質ですから、粉ですから、粉が散ったんですから、その散った粉は三十年間放射線を出し続けるわけですから、これはもう技術的に単に集めればいいだけのことで、これは、日本の国土が非常に重要だということもあって、できるだけ早くやるべきだ。
 梅雨が来まして雨が降りますと、下の方にしみていきます。そうすると、5センチ、10センチ取らなきゃいけないということになって、これは不可能であるということになりますが、現在では全く不可能じゃないわけです。残念ながら、その放射線を出す粉が自分の目に見えないのでふこうという気が起こらないというだけですので、ぜひ早目に取って、福島がきれいになることを非常に期待しているんです。

武田参考人 一年1ミリシーベルトというのは国際勧告でもありますし、国内の法律でもすべて1ミリシーベルトであると。これは最近、いろいろな自治体がホームページに、一年100ミリシーベルトまで大丈夫である、こう書いてあるので、私が個別にその自治体の人に聞きますと、いや、政府が一年1ミリシーベルト、法律はどこにあるんですかというような答えが返ってまいりますが、やはり私は、これは四十年来のいろいろな先生方の検討で一年1ミリシーベルトが、線量限度と言っていますが、この限度という考え方は、まあ少しがんになるんだけれども、いろいろな社会的なことを考えればこのくらいは我慢するということで、我慢の限度ということで一年1ミリシーベルトを決めております。
 ヨーロッパは0.1ミリシーベルトを主張しておりますし、日本の法律からいえば、原子力施設のような放射線を出すところは50マイクロシーベルト、つまり0.05ミリ、それから、これは放射線がないからこのままでいいよというレベルは、クリアランスレベルといいますが、0.01ミリシーベルトという全体的な法体系で進んでおります。
 例えば、校庭の上の土と下の土をまぜるということをしますと、これはもう完全に低レベル廃棄物の違反の行為ということになりまして、どういうことが起こるかといいますと、雨が降ると、下に入った土から地下水が汚れる、すべてそういうことを勘案して現在の日本の放射線防護の法体系ができております。これは、今先生が言われたように、事故になったから急に人間が放射線に強くなるわけではない。
 もう一つは、多くの方々の不安は、今まで放射線が危ないと言ってきたのに、事故が起こったら、突然放射線は危なくないと言われますと、それの方の心理的ストレスは極めて高いというふうに考えますので、やはり一年1ミリに早く到達するように、付近の放射性物質を除くとか住民を避難させるとか、適切な処置を私はするべきだと思っています。

 私も原子力をずっとやっておりまして、フランスに随分長く行ったことがあるんですけれども、原子力発電所を技術的に安全にするということは可能なんですね。これは例えば、特に周辺装置の耐震性とか耐災害性が弱いものですから、これを非常に上げても、もともと電源系だとか熱交換器系とか計測系というのは建設費が安いものですから、それにある程度お金をかけても、原子力発電所の資源性だとかコスト性には影響がない。したがって、そこに日本の技術が本当に投入されれば私は大丈夫だと思います。
 しかし、私が、もう全部の原発をとめた方がいいんじゃないかと言っていますのは、原子力発電所を安全に動かすためには技術があってもだめだということを、今さらながら今度の事故で痛感いたしました。日本には原子力発電所が必要だから原子力発電所は安全であるという、技術的には破綻した論理が通っていたというところに問題がある。原子力発電所の安全性と原子力発電の必要性というのは別個のものでありますし、また、逆に言えば、安全性を保たなければ原子力発電所を利用することはできないわけでありますので、その点では、私は、原子力発電所の今度の事故は人災だ。
 それは、原子力発電が故障したときには、人が亡くなることも非常に重いんですけれども、郷土を長い間失ってしまうという非常に大きな影響を与えるということ、そういう事実を真正面から見て、それでそれに対する対策をとっていくという点では、残念ながら、私も、フランス人の胆力よりか少し弱いなと。そうすると、そういった社会の中で、原子力発電所を安全にやるということは現実的に無理ではないかというふうに、非常に今では、少し後退的に考えておりますが、本当に日本が原子力発電所という巨大なものを正面から見詰めて、事故が起こったら何が起こるのかということもはっきりと見詰められるようになったら、私は大丈夫だと思います。しかし、現在でも、20ミリを我慢しろというような基本的な姿勢にとどまるならば、やはり私は今でも難しいというふうに思っています。

 自治体の中には、地上から高さ15メートルとか、四階のところではかっている。これを住民が、我々は生活するところではかりたいんだ、もしくは、お子さんがおられるわけですから0センチのところの値を欲しいんだと言いますと、自治体ではこういう答えが返ってくることがあります。測定器は高いから、壊されるといけないので高いところをはかっているんだと。15メートルのところと0.5では全然違うわけですね。そういうデータを幾ら示されても、これは、お母さん方がそれで満足するはずは絶対ないですね。
 今はマンションの四階以上ですとほとんど被曝は、随分少ないんですよ。一階で多いわけですね。僕は、15メートルのとき、器械が高いんですというのを聞いたとき、いや、この人たちは国民が被曝することを考えているのか、ただ、はかればいいと思っているのかというふうに非常に疑問に思いました。やはり心配されているお母さんの立場に立って、しかも、お子さんは非常に低いところで生活されています。それを考えて、もうあしたからでも本当は各自治体が、文部省を含めて、子供が生活するところをはかってもらいたい。子供が守れれば、大人は自動的に守れます。したがって、焦点を子供に合わせて、やはりデータの公表、それから説明、全部やっていただきたいというふうに思っております。

 今福島を汚しているのは放射性を持った粒でありますから、この粒を、小学校の校庭ばかりでなく、すべての道路、壁、それから、最後には木とか草が残りますから、それを切って、木を全部切る必要はありませんが、葉っぱを切って焼却する、放射性物質回収つきので焼く。これを、できれば可能な限り梅雨の前にやって、土壌の汚染を防ぎ、さらに全体的に洗浄することによって、私は、日本が不幸にして原子力発電所の事故を起こしたけれども、それからは土地の回復は一番早かったという例をぜひつくっていただいて、世界に示したいというふうに思っています。

 一年に20ミリシーベルトでも大丈夫だと言う方は、どういう根拠を持って言われているのか全くわからない。それも、人の健康にかかわることでわからないことを言うわけですね。1ミリシーベルトと20ミリシーベルトの健康がどうなるかということはだれも言えないんですね。だれも言えないのに、20ミリシーベルトで大丈夫だと言っている人がいるんですね。その大丈夫だなんというのはどこから出てきたんだと。もしも今までのICRPの考え方に沿えば、それが唯一我々の指針ですけれども、学術問題以外では指針ですが、1ミリシーベルトに比べて20ミリシーベルトは20倍のがんの過剰発生があるということしか我々は言えないわけです。
 それからもう一つつけ加えるならば、文部省の3.8マイクロシーベルトを私が計算しますと、子供は年間に約60ミリシーベルト浴びます。それはどうしてかといいますと、お子さんは、そこの3.8マイクロシーベルトをはかっている場所によるんですけれども、土の上ではかっているのならいいんですけれども、あらかたは0.5とか1メートルのところではかります。ところが、お子さんは運動場で腕立て伏せをしたりほこりにまみれたりします。それを計算に入れていないということですね。なぜこれを文部省が計算されなかったのか。学校における児童とか生徒の行動がわかっておられないのではないかと思います。
 それからもう一つは、実は地産地消なんといって、福島のお子さんたちは本当にかわいそうなんですが、校庭で被曝し、砂ぼこりで被曝し、さらに地産地消で被曝し、地産地消のものというのは、規制値以下でも足し算になりますから、空間だけでいっぱいいっぱいの被曝を受けているお子さんがさらに足されるわけですから。コウナゴのときに、汚染されたときに、これを一年じゅう食べても規制値の0.8倍になる、それはほかで被曝していないときに言えることでありますので、そういった専門家とかお国がそういうようなことをなさらない方がいいんじゃないかというふうに思います。

 通常の原子力以外のものですと、すべての責任はプライベートカンパニー、私企業にかかってきますので、今度のような場合は、もちろん東電は福島県の土地を全部掃除しなきゃいけませんし、被害者に補償しなきゃいけませんから、たちまちつぶれますね。ですから、もしかすると、電力会社は原子力発電を選ばなかったのではないかとも思われます。しかし、実は国策として原子力発電をやってきた。したがって、国が開発の面倒も見る、再処理の面倒も見る、それから、事故が起こったときは、面倒を見ていないんですけれども、見るという建前になっているということのもたれ合いが、原子力をやるときに、別に、電力会社が地元に安全だと言うのは当然だと僕はこの前言ったんですよ。だって、自分たちがやっているんですから、不安全だと思ってやるはずないわけですね。ですけれども、そのかわりに国がチェックしますよといったところが全部抜けている。
 それから、事故が起こったら、実は国が何もやらない。国側は、結局、国策としてやった原子力が、もともと危険な設計であり、事故が起こったときの、国民を救うという点で何のポリシーとか具体策を持っていなかったということは事実なので、できるだけ早く国が、今福島の方は、私も行きましたけれども、国の影がないですよ。例えば、国が行って除染しているとか、系統的に市町村と協力して片っ端から片づけているとか、全くないですね。もう二カ月たつわけですから。
 ですから、電力会社の問題というよりかは、国が今まで進めてきたところに大きな基本的な欠陥があった。それが我々原子力をやっている人間に心のすきを与えて、そして徐々に危険な方向に行った。その一つの証拠が今度の福島原発の事故だというふうに思っております。

 四月の中旬に東京電力が工程表を発表したときは、もちろん、その中にわかっていることを書かないという問題がありましたけれども、それ以上に、あの日に政府側も今後の方針を発表しましたが、何ら工程表のようなものは出てこなかった。つまり、少なくとも、東京電力という会社はよきにつけても悪きにつけても存在するけれども、日本国というのはないんだなと思いました。というのは、もう現実に被曝している人が一カ月苦しんでいるにもかかわらず、いつから片づけるのかということすらプランを示せないということは非常に大きな問題だったんじゃないかと思います。それは、今度政府が発表されましたけれども、やはり非常に抽象的であるということで、これは責任上もう一歩踏み込まなきゃいけないというふうに思っています。