まず最初は、日本の原子力発電所の自然災害に対する安全性であります。2006年に日本の原子力発電所は新しい地震指針というものが決まりました。そのときにどういうことが決まったかといいますと、まあ余り安全じゃなくていい、残余のリスクというのを認めようじゃないか、そういうことでした。これが現在では想定外という言葉で言われておりますが、その基準には「残余のリスク」という言葉で説明されております。それで、残余のリスクを認めるということはどういうことかといいますと、言ってみれば、建設側、電力会社の想定した想定外のことが起これば、その結果が三つ明記されております。第一に、施設が壊れること、第二に、大量の放射線が漏れること、第三に、「著しい」というのは説明書に書いてあるんですけれども、著しく住民が被曝すること、この三つが起こることを認めなければいけない。そういう指針がこれは正式に通っております。
ということはどういうことかというと、日本国が、原発は想定外であれば倒壊して、大量の放射線が漏れて住民が被曝する装置であるということを構わないと認めたことでありまして、私は大変にびっくりいたしました。それまで比較的、私はずっと原子力の仕事をやってきましたので原子力をもちろん推進しておったわけですが、これはもうだめだと。何でだめかといいますと、もともと壊れるようなものをつくって、大きな災害になって、それで原子力を続けるなんということは技術的にはもう全然できないことでありまして、私はやや批判的になりました。つまり、国策で進めている技術が大災害をもたらすということが技術的、論理的にはっきりしたということでして、それはもうとてもやっていけないというのが私の感想であります。
その後、震度6の柏崎刈羽原子力発電所が壊れたのが2007年、今回、2011年に同じく震度6で福島第一原発が壊れ、さらに、余震で女川と東通原発が電源を失ったりいろいろなトラブルに巻き込まれる。その中でも、特に青森県にあります東通原発は、震度4で全電源を失う。私は技術者でありますので、そういうような技術的な作品といいますか、そういうものをつくる、また運転するということ自体が極めて大きな問題であろうというふうに思っています。
それで、浜岡原発がこの前停止になりましたか。原子力発電所の自然災害による弱さというのはどこにあるかというと、いろいろな原因があるんですが、一番大きいのは、原子炉は守られているけれども、そのほかは守られていないということなんです。例えば、今度、福島で電源系が落ちました。そうしますと、多くの人が津波に備えなきゃいけない、こう言っていますけれども、そんなものじゃないわけです。原子力発電所は極めて複雑なものでありますから、地震と津波に備えればそれで終わりというものじゃありませんで、熱交換器のパイプが外れても同じことが起こりますし、計測系に間違いがあっても同じことが起こります。したがって、どこに問題があるかというと、原子炉は比較的強く守られておりますが、原子力発電所全体の安全は非常に弱いということです。
これはなぜかといいますと、私は地震指針のときに専門委員で地震指針の審査に当たったわけですが、その冒頭に私が、この指針は原子炉を守るための指針なのか付近住民を守るための指針なのかという質問をしております。この意味は、原子炉だけを守るのと、原子力発電所全体を守り、かつ付近住民が被曝しないということを守るのとでは、設計上大きく違ってまいります。どちらをとるかということが極めて重要な問題であろうというふうに思っています。
そういうことで、私の技術的な見解、飛行機が欠陥があって墜落しますと、その時点でその飛行機の使用を一応やめて、検査をして原因を明らかにしてから飛行機の運航をするというのが技術的な常識であります。福島原発では、論理的に原子力発電所が壊れるという設計どおりのことが行われたわけです。その設計どおりのことが行われてそれで壊れたわけですから、これはやはり日本のほかの原発を全部とめて、そして設計の見直しを行って、安全の見直しを行って再開するのが、技術的には正しい方法であろうと私は思っています。それによって原子力発電所が安全に動くことができる。飛行機も、かつては墜落しましたが、現在では非常に安全に運航しているわけですけれども、それは、そういった技術的な観点がはっきりしているということが技術の進歩をもたらしているのであろうと思っています。
それから、論点の第二ですけれども、これは、非常に原子力発電所というのは奇妙で、今言いましたように、壊れるのがわかっているものを動かしているという問題が一つと、もう一つは、技術の問題は必ずしも100%安全ということはあり得ないわけです。したがって、必ず、事故が起こったら何をするかということは決めておかなければいけないわけであります。
この前、ある電力会社とプライベートな会合をやりまして、私はこういうふうに質問しました。原子力発電所が壊れたら、我々の市は水源を失うんだけれども、電力会社はペットボトルを用意されていますか。していないと。そのうちには空間線量率が上がって子供たちを疎開させなきゃいけないけれども、電力会社は疎開先の小学校をどこに用意していますか。用意していないと。そのうちには土地が汚れて、土地の土を持っていかなきゃならないけれども、その土を持っていくところはどこにありますか。ないと。
私は、現在の社会で技術的に適用されている巨大技術というのは、すべからく、その実施者がそれに何かあったときにちゃんとその始末をする責任を持つ、もしくは実施能力を持っているがゆえに認められているというふうに思っています。ある技術をやって製品をつくって、僕は技術を長くやってきましたけれども、それが壊れたら何も知らないというふうな技術が存在する、それがしかも国策でやられているということは、非常に私は違和感を感じます。
それとともに、きょうは放射線の御専門のお医者さんがおられてちょっと言いにくいんですけれども、事故が起こる前、我々は、原子力発電所の安全を保つために、常に一年一ミリシーベルトを基準に設計してきたわけです。あらゆることをやってきたわけです。事故が起こって、突然一年百ミリシーベルトまで大丈夫なんと言われたら、設計の根幹が崩れます。一年に百ミリシーベルトまで安全なら、原子力発電所は突然安全に変わります。私たちが原子力発電所の安全技術というのをつくるときは、まず第一に、医療関係者が一年何ミリシーベルトまで大丈夫だということを基準に設計を始めるわけです。
したがって、そこが揺らいだら、原子力発電所というものをつくること自体がもともとできないと私は思いますので、今回の事故が起こって、何ミリシーベルトまで安全だなんという話が出てくるということ自体が、私はもう非常に違和感を感じております。これでは技術をつくることはできませんです。
技術は必ず、それのもたらす社会的結果において、それを防ぐための対策を主体として設計するものでありますから、例えば自動車でも、時速が千キロまでというのだったらまた設計が変わってきますし、時速十キロに制限されたとなったらまた変わってくるわけです。だから、そこのところは非常に根幹であって、現在そういうことが、三・八マイクロシーベルトであるがどうとか、それを議論しているというようなことでは、私は巨大技術をやることはできないと思っています。
それから三番目の論点は、原子力基本法が成立いたしまして、原子力は常に民主、自主、公開でなければいけないという原則がありまして、私は技術者として今までやってきまして、この原則があるという前提で原子力は安全に技術として展開できる。つまり、現在では一番大きな問題は公開でありますが、これは、原子力基本法ができたときに日本学術会議が、原子力についてはあらゆるプロセスですべて公開というような要請をしておりますけれども、私も技術者の一人として、公開がなければこのような大きな技術を安全に運行するということはもうほぼ不可能であるというふうに思いますので、その点も御考慮いただければと思います。