昔は不便も強いられたが、良かった………一名古屋市民の独り言 2023年04月16日 18時29分41秒 | 鉄軌道 昔は確かに不便で貧しかったが、今よりは良かった………。名古屋近辺の住民にとって、我々、中高年世代は大半が恐らく、そういう気持ちだろうね。先日も岸田文雄首相が和歌山市内の港で演説直前に24歳の暴漢に襲われ、あわや暗殺かという事態になりましたし、明日は何が起こるのか全く分かりませんな。(苦笑)本日昼は名駅にて画像の写真集を購入しました。今のメンタルな病?が治まれば、ゆっくりと楽しみたいですね。また、帰りは再びイタリアンに舌鼓を打ちました。 #みんなのブログ #鉄道 #名鉄 #近鉄 #名古屋市交通局 « JR津軽線の末端部、被災復旧せずに廃止も視野... | トップ | 路線バスLED方向幕、どうも白... »
2 コメント コメント日が 古い順 | 新しい順 Unknown (国鉄世代) 2023-04-17 00:36:11 画像の書籍、1965年生まれの者には懐かしい写真ばかりで、書店で見て双方共に即買いでした。「昭和の名古屋 鉄道風景」には中央線の金山手前の波寄カーブ(勝手に命名)を行く581系「つばめ」の回送列車の写真が掲載されてますが、私、幼少の頃に金山橋駅近くの波寄町に住んでいて、中央線沿いを走る幼稚園バスの中から毎朝この「つばめ」を回送を見ていたので、懐かしさも一入です。もちろん当時は581系とか「つばめ」の回送なんて事は知らなくて「あおとしろいろのおっきなでんしゃ」って認識ですが、それでも同じような色の70系とは違うってのは分かってたので、記憶に残ってるのですよ。長々と失礼しました。 返信する Unknown (LV288N) 2023-04-17 03:03:26 >昔は確かに不便で貧しかったが、今よりは良かった………。>名古屋近辺の住民にとって、我々、中高年世代は大半が恐らく、そういう気持ちだろうね。あくまで私だけの個人的感想ではありますが、当時の方がよかったという思いは私にはあまりありません。一応、私は中高年層に該当する1966年生まれですが、鉄道ひとつとっても列車便所が開放式と呼ばれる線路に垂れ流しのトイレであり、保線作業員および沿線住民に悪影響をもたらしていました。そしてこれらは「黄害」(おうがい)と呼ばれ問題になりました。名古屋地区ではいつまで開放式便所が残っていたのかわかりませんが、JRグループ全体では北海道で2002年3月に廃止されるまで残っていたようです。あと、さらに個人的な話ですが、1963年~1993年の間に市バス中川車庫の目の前で飲食店を営業していた母の実家も汲み取り式便所でした。母の実家は1980年代はじめに大規模なリフォームを行い、それ以降は水洗式になりましたが、リフォーム前は遊びに行ったときに便所を使うのがすごく嫌であったのを覚えています。とはいえ、当時はいろいろと未発達な部分があったのと、高度経済成長期であったことから今よりも将来の夢を持てる時代であったとは思います。参考サイト列車便所 ウィキペディアhttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%97%E8%BB%8A%E4%BE%BF%E6%89%80「寝台特急がいちばん厄介」120年間も鉄道マンを悩ませ続けた"黄害"の正体 プレジデントオンライン(全3ページ)https://president.jp/articles/-/43854?page=1進化する列車のトイレ 課題は水 150年でどう変わった? 常には使えなかった時代も 乗りものニュース(全3ページ)https://trafficnews.jp/post/96236列車とトイレ 屎尿・下水研究会http://sinyoken.sakura.ne.jp/caffee/cayomo032.htm【939】 使用停止の車内トイレ 昭和の鉄道員ブログhttps://shinano7gou.seesaa.net/article/201812article_3.html「開放式」の「黄害」 ひまわり乳業株式会社https://www.himawarimilk.co.jp/diary/?No=4711列車トイレ 鉄道ジャーナルhttp://rail-j.com/esse/index.php?%CE%F3%BC%D6%A5%C8%A5%A4%A5%EC上記サイトはいずれも開放式時代の列車便所に関しての記述になりますので、食事中およびその前後の閲覧はおすすめできないものとなります。最後に、ここまで書いたことはすべて私個人の考えであり、銀河さんの「当時はよかった」というのを否定するものではないことをご承知おきください。 返信する 規約違反等の連絡 コメントを投稿 goo blogにログインしてコメントを投稿すると、コメントに対する返信があった場合に通知が届きます。 ※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます 名前 タイトル URL ※名前とURLを記憶する コメント ※絵文字はJavaScriptが有効な環境でのみご利用いただけます。 ▼ 絵文字を表示 携帯絵文字 リスト1 リスト2 リスト3 リスト4 リスト5 ユーザー作品 ▲ 閉じる コメント利用規約に同意の上コメント投稿を行ってください。 コメント利用規約に同意する 数字4桁を入力し、投稿ボタンを押してください。 コメントを投稿する
「昭和の名古屋 鉄道風景」には中央線の金山手前の波寄カーブ(勝手に命名)を行く581系「つばめ」の回送列車の写真が掲載されてますが、私、幼少の頃に金山橋駅近くの波寄町に住んでいて、中央線沿いを走る幼稚園バスの中から毎朝この「つばめ」を回送を見ていたので、懐かしさも一入です。
もちろん当時は581系とか「つばめ」の回送なんて事は知らなくて「あおとしろいろのおっきなでんしゃ」って認識ですが、それでも同じような色の70系とは違うってのは分かってたので、記憶に残ってるのですよ。
長々と失礼しました。
>名古屋近辺の住民にとって、我々、中高年世代は大半が恐らく、そういう気持ちだろうね。
あくまで私だけの個人的感想ではありますが、当時の方がよかったという思いは私にはあまりありません。
一応、私は中高年層に該当する1966年生まれですが、鉄道ひとつとっても列車便所が開放式と呼ばれる線路に垂れ流しのトイレであり、保線作業員および沿線住民に悪影響をもたらしていました。そしてこれらは「黄害」(おうがい)と呼ばれ問題になりました。名古屋地区ではいつまで開放式便所が残っていたのかわかりませんが、JRグループ全体では北海道で2002年3月に廃止されるまで残っていたようです。
あと、さらに個人的な話ですが、1963年~1993年の間に市バス中川車庫の目の前で飲食店を営業していた母の実家も汲み取り式便所でした。母の実家は1980年代はじめに大規模なリフォームを行い、それ以降は水洗式になりましたが、リフォーム前は遊びに行ったときに便所を使うのがすごく嫌であったのを覚えています。
とはいえ、当時はいろいろと未発達な部分があったのと、高度経済成長期であったことから今よりも将来の夢を持てる時代であったとは思います。
参考サイト
列車便所 ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%88%97%E8%BB%8A%E4%BE%BF%E6%89%80
「寝台特急がいちばん厄介」120年間も鉄道マンを悩ませ続けた"黄害"の正体 プレジデントオンライン(全3ページ)
https://president.jp/articles/-/43854?page=1
進化する列車のトイレ 課題は水 150年でどう変わった? 常には使えなかった時代も 乗りものニュース(全3ページ)
https://trafficnews.jp/post/96236
列車とトイレ 屎尿・下水研究会
http://sinyoken.sakura.ne.jp/caffee/cayomo032.htm
【939】 使用停止の車内トイレ 昭和の鉄道員ブログ
https://shinano7gou.seesaa.net/article/201812article_3.html
「開放式」の「黄害」 ひまわり乳業株式会社
https://www.himawarimilk.co.jp/diary/?No=4711
列車トイレ 鉄道ジャーナル
http://rail-j.com/esse/index.php?%CE%F3%BC%D6%A5%C8%A5%A4%A5%EC
上記サイトはいずれも開放式時代の列車便所に関しての記述になりますので、食事中およびその前後の閲覧はおすすめできないものとなります。
最後に、ここまで書いたことはすべて私個人の考えであり、銀河さんの「当時はよかった」というのを否定するものではないことをご承知おきください。