銀河夢急行

公共交通の話題を中心に、幅広く取り上げます。
都合により無予告で投稿を休止することもありますが、宜しくお願い致します。

人権外交を広範且つ多彩に展開。カーター元米大統領が他界。享年100。

2024年12月30日 08時00分21秒 | 訃報
既に各報道にてご存じかと思いますが、1970年代後半に米大統領を務められたジミー・カーターさんがジョージア州の自宅にて他界されました。享年は何と100。歴代の米大統領では最長寿だったとか。
カーター元大統領は民主党出身で、いわゆる人権外交を展開。ノーベル平和賞も受賞されましたね。
在任中には、1979年元日に中国との国交を回復させました。
また大統領の座を降りてからも、北朝鮮の首都、平壌を訪問され、当時はご健在だった金日成主席とも会談。何とか核戦争を断念させました。しかしながら、その金主席は残念ながらも、何故か直後に急逝。享年83だったかな?
カーターさんは終生、自由と民主主義且つ平和を愛され、その信念を貫徹されましたね。
世界各地での紛争解決や対立和解にも多大な功績を残されました。
ここに慎んでご冥福を祈りつつ、合掌と献杯。
・追伸……石破茂首相も日本政府を代表して早速、お悔やみのメッセージを表明しました。
米国内でも、バイデン大統領とトランプ次期大統領が弔意を示されましたね。
バイデン大統領は、カーター元大統領の国葬を執り行う方針を示しました。

女優のオリビア・ハッセーさん他界。享年73。ジュリエット役。布施明さんの元妻。

2024年12月28日 14時33分53秒 | 訃報
映画“ロミオとジュリエット”のジュリエット役も演じられた英国の女優、オリビア・ハッセーさんが先日、病気のため他界されました。享年73。アルゼンチンの首都・ブエノスアイレス市出身。
シェークスピア原作の“ロミオとジュリエット”。私自身が小6の時の1968年に上映されました。
海外でも著名人の訃報が何故か、ここのところ相次いでおり、また寂しくなりますね。
オリビアさんは歌手・布施明さんとも過去には結婚されたことがあり、多くの子宝に恵まれていました。
その後、名古屋市昭和区の南山大学にも来訪されたことがあったマザー・テレサさん(故人)をモデルにした映画にも出演。そこでもヒロインを務められました。
ここに慎んで、ご冥福をお祈り致します。合掌。

浜松市の“やらまいか精神”で世界のスズキに大躍進。鈴木修さん他界。享年94。

2024年12月28日 08時07分10秒 | 訃報
国内屈指の自動車工業の一つ“スズキ”相談役、鈴木修さんが先日、悪性リンパ腫のため他界されました。享年94。岐阜県下呂市出身です。
今朝の中日新聞でも、あの故・須田寛さん並みの大きな扱いで記事に取り上げていますね。
鈴木修さんは中央大学法学部を卒業され、当初は中央相互銀行、つまりこれからの、あいち銀行に勤められていたとか。その重要取引先の一つがスズキ自動車にほかならない。
その後、当時のスズキ自動車の社長に見込まれたのか、そちらへ転職され、浜松を拠点に自動車産業の振興にも努められました。
浜松市では近年“やらまいか精神”がクローズアップ。古来からの養鰻産業や繊維産業等に留まらず、音楽機器産業のヤマハや河合楽器に対抗してか、自動車の普及や新型の開発に尽力。新たな地場産業が確立しましたね。まずは軽自動車部門に力を入れています。
特に海外においては、インドへの技術輸出に注力され、高い評価を得られましたね。
私自身も中古ながら、若かりし平成初期には軽自動車の“アルト”を安く購入し連日、運転していた思い出もあります。私自身のマイカーにとっては初のAT車に。
トヨタ自動車の豊田章男会長も鈴木修さんを厚く尊敬。いろいろ経営的アドバイスを、きっと受けられたことでしょうね。うん。
あの川勝平太・前静岡県知事との関わりについては、よく分かりませんが。
また大村秀章・愛知県知事もリニア中央新幹線推進派ながら、鈴木修さんとの親交は古いとの由。
まあ、このリニア建設において一時、最悪の展開になったのは、もしかしたらJR東海における故・葛西敬之氏の当時の些か傲慢な経営姿勢のせいかもしれない。私自身も正直、彼だけは評価出来ない。
ここでは敢えて詳しいことは書かないことにしますが、旧国鉄への入社動機も極めて不純だったようだし。うん。ウィキペディアによれば、悪いスキャンダルも多かったような。
さて、浜松市が豊田市や豊橋市、岐阜市、静岡市等をも遥かに凌ぐ近代的な大都会になれたのも、鈴木修さんの功績が大きいだろうね。きっと。
ここに慎んでご冥福をお祈りしつつ、合掌致します。

…………スズキに直接関連する画像が手元にないため、浜松市街交通の王者、遠鉄バスのものでも貼っておきますね。浜松市が今のようなオムニバス都市宣言出来たのも、今のスズキのおかげかもしれません。
…………鈴木修さんは中日ドラゴンズの熱心な応援者の一人でもあり、井上一樹監督や立浪和義前監督等との親交も深かったらしいね。
・追伸…………奇しくもほぼ同年代で、且つ相次いで旅立たれた須田寛さんと鈴木修さん。
共通点はアイデアマンでもあり、現場把握も素晴らしかったことや、社員やユーザーからの生の声を謙虚に聴く姿勢も著しかったことですね。
鈴木修さんは小型国民車“アルト”の生みの親とも言えます。
あの須田寛さんも静岡鉄道管理局管内に在勤中、旧国鉄の制服を着て、凛々しい姿で駅員そして列車の車掌も経験されたとか。折しも東海道本線の静岡県内区間が電化された直後のことで、さぞや誇らしげだったろう。
お二人様とも今後のテレビドラマのモデルの有力な候補になるのは間違いなかろう。うん。

JR東海初代社長の須田寛さん他界。享年93。遊び心も旺盛な経営哲学者。鉄道ファンからも人気。

2024年12月23日 15時09分06秒 | 訃報
旧国鉄(公共企業体・日本国有鉄道=JNR)本社で営業畑の部長を務められ、旧名古屋鉄道管理局長、JR東海初代社長並びに会長、晩年には鉄道友の会会長も歴任された須田寛さんが先日、老衰で他界されました。享年93。京都市出身。
須田寛さんは洋画家・須田国太郎さんの長男。本当は画家になりたかったとか。
しかしながら、この父親からは「お前に画家なんかやれる筈がない!」と厳しく一喝されたらしく断念か。
京都大学法学部を進学、卒業し、旧国鉄に就職されましたね。
しかしながら、国鉄に就職されても夢とか遊び心、真の鉄道ファンへの思いやりは一時も忘れず、大したものでしたよ。
中堅の幹部の時代には在来線特急の大衆化を促進。いわゆるエル特急を確立され、昔ながらの敷居が高かった国鉄の特別急行から脱皮を図りましたね。
また、特急車両を活用したホームライナーの生みの親でもありました。これまでの縦割り行政的な当時の国鉄経営に一石を投じた経営哲学者の一人とも言えます。ファンサイドから見れば、まさしく鉄道芸術家だね。
寝台特急のブルートレインについても、一つの生活文化だとして可能な限り運行や通過を大切に考えておられたようだ。
ワイドビューひだ・南紀(キハ85系)とかワイドビューしなの(383系)の車両設計に当たっては折角、景色が良い路線で使うから、ぜひとも展望車的な要素を……との強い信念を持っていたそうな。
画像のキハ85系は既に全廃されましたが、今後デビューする予定の385系特急“しなの”には、その考えがきちんと踏襲されよう。
飯田線でのトロッコ客車列車の実現にも寄与されたし、愛知万博2005の誘致にも貢献されました。
ここに慎んで、ご冥福をお祈りし合掌と献杯。
JR東海だけでなく、良きライバルの名鉄や近鉄を含めた日本全体の鉄軌道の活性化や振興をありがとう。


・追伸………私自身が生前の須田寛さんをテレビ番組で最後に見たのは、もう何年も前だったかな。確か、エル特急の解消宣言をした時。最後まで残されていたエル特急は既に全国でも“しなの”“ひだ”“しらさぎ”だけに。
その時の語録は「エル特急の役目は終わった。これからはリニアのエルだ!!」。これが彼の事実上の遺言だったのかもしれませんね。うん。

ミポリンこと俳優・歌手の中山美穂さん急逝!!享年54。入浴中に事故死か。あるいは溺死?

2024年12月06日 15時27分13秒 | 訃報
ホンマに突然の訃報です。
歌手や俳優を務められた、かの中山美穂さんが急逝されました。享年54。長野県出身とか。(一部のメディアでは、東京都小金井市出身とも報じられているが……)
今朝、東京都渋谷区恵比寿の自宅の浴槽内にて前屈みで倒れているのを警官が発見したとか。既に息が絶えていたようだ。
警視庁は事件性がないかどうか、慎重に調べています。
しかしながら、本日は大阪でクリスマス公演が開催されるため出席される予定のようでしたが、体調不良を理由に参加を急遽、取りやめていたそうな。
恐らく急病で突然に他界されたものと、私自身は推定します。
ここに慎んで生前での彼女のご活躍を偲び、合掌致します。
ミポリンこと中山美穂さんの実妹は歌手の中山忍さん(51歳)ですね。さぞや姉の突然の訃報で、衝撃的だったことでしょう。
テレビドラマ“ママはアイドル”では、ミポリンは確かゴクミこと後藤久美子さんと共演しておられたかな? あの時の笑顔は今でも忘れられませんね。
・追伸………中山美穂さんは、医師の検視によれば、入浴中でのヒートショックによる事故死(溺死?)の可能性が大きいとの由。どうやら、体温の自律的な調整が何らかの原因で急に効かなくなったらしい。
時節柄、皆さんも十分に気を付けましょう!!
今夕の東海テレビ番組にて。
昨夜、つまり5日の午後11時頃現在は確かにインスタグラムを更新しておられたとのこと。よって、死亡時刻は6日の未明か早朝ぐらいか。正午過ぎに亡くなっているのを発見されたとか。
幸いにも事件性はなさそうですね。改めて合掌。
・追伸2………中山美穂さんは生前、無類の酒好きだったそうな。
まさか飲酒直後に入浴??
だいいち健康に宜しくないため、こういう行為はやめましょう!!
・追伸3(12/7)………中山美穂さんは何と亡くなる6日の午前7時までLINEで仕事についての打ち合わせをしておられたとか。
まさしく、本当に不慮の他界直前までは何とかお元気だったようですね。新大阪駅に向かう当日の新幹線の指定席まで予約してあったらしい。衝撃です。
・追伸4(12/8)…………LINEのやり取り。どうやら去る6日(金曜日)午前2時30分が最後だったようですね。
午前7時にイベント企画スタッフが返事を送っても既読スタンプは付かず、日の出の頃には既に亡くなられていた可能性が高いとみられます。
本日、美穂さんの解剖が執り行われ、間もなく死因が断定の見込み。
喪主は中山忍さん。再び合掌。
※ここに慎んで、生前のミポリンこと中山美穂さんの数々のご活躍を偲びつつ、ご冥福をお祈り致します。彼女に献杯。

声優の堀絢子さん他界。享年89。新オバQ等幅広く出演。

2024年11月26日 14時48分10秒 | 訃報
中日新聞などの報道によりますと、声優の堀絢(じゅん)子さんが先日、老衰のため他界されました。享年89。東京都出身。
堀さんは、人形劇では“ひょっこりひょうたん島”のプリンちゃんの役、TVアニメでは新オバケのQ太郎とか忍者ハットリくんの主役を声演されましたね。また“トムとジェリー”のジェリーの役も。
その他、幅広く出られました。
ここに慎んで、ご冥福を祈ります。合掌。

元横綱・北の富士勝昭さん他界。享年82。玉の海の良きライバル。

2024年11月21日 05時51分03秒 | 訃報
あの柏戸、大鵬と並び戦後の日本角界の代表横綱として一世を風靡した北の富士勝昭さんが先日、病気で他界されました。享年82。北海道旭川市出身。
横綱時代では若くして夭折された愛知県蒲郡市出身の玉の海とは良きライバル、親友でもありましたね。1971年に玉の海が急逝された時には、男泣きに号泣されたとも。当時、私自身は中3でした。
井筒部屋の親方になられてからは千代の富士(故人)などを育て上げました。
若い頃は結構、プレイボーイ的なところもありましたが、性格的には何事も、とことん筋を通し、一種のスポーツ哲学者的な側面も。また、晩年は相撲解説者など幅広く活躍されましたね。それに引き換え、あの火野正平さんは如何に?
あの日馬富士が鳥取市内で暴力沙汰を引き起こした際には真剣に激怒しました。いざという時は、なかなか正義感も強かったようです。
本当に真からの名誉力士でしたね。喜怒哀楽も激しかったような。
ここに慎んで、往年のご活躍を偲びつつ、合掌して冥福をお祈り致します。

俳優そして多彩なプレイボーイだった火野正平さん急逝。享年75。

2024年11月20日 17時33分34秒 | 訃報
俳優の火野正平さんが先日、急逝されました。享年75。東京都出身。
最近までNHK番組“こころ旅”に出演。元気な顔をして、愛用の自転車で日本列島をくまなく回っておられたのだが。うん
若い頃は優秀なタレントと同時に、その裏では、どうも、かなりのプレイボーイのようでしたな。(苦笑)ゴシップや女性絡みの多彩な噂も絶えませんでしたよ。どこかの誰かさんみたいな一種の“ムッツリ助平”みたいな印象も拭えませんでしたね。
それでも、朝ドラ、昼ドラ、時代劇、大河ドラマ、青春ドラマそしてバラエティー番組など幅広く出演。渋く、且つ明るく楽しい方でした。よく笑う人でしたね。
晩年は骨折や慢性的な腰痛に見舞われたらしく、それが急速に悪化して衰弱死されたようだ。しかしながら、まだまだ、いくらなんでも老衰には早すぎますよね。
ともあれ、ここに慎んでご冥福をお祈りしつつ、合掌致します。

三笠宮妃百合子さま逝去。享年101。皇室最長寿!!

2024年11月15日 14時07分51秒 | 訃報
長らく病気療養中だった三笠宮妃百合子さまが老衰で亡くなられました。享年101と、歴代皇族では最長寿だったとか。
2022年正月までは皇居での一般参賀にも姿を見せておられました。
またこれにより、皇族の昭和期以前生まれの方々はすべて他界されたことになりますね。
戦乱期に昭和天皇の実弟の三笠宮さまと結婚。あの寛仁さまを含めて5人の子宝にも恵まれ、戦後は国際親善にも寄与されましたね。また一つの時代が過ぎたような。
ここに慎んで、ご冥福をお祈り致します。合掌。




中日新聞社名誉会長、ドラゴンズ元オーナーの白井文吾さん他界。享年96。

2024年11月04日 05時29分08秒 | 訃報
中日新聞社名誉会長の白井文吾さんが先日、老衰のため他界されました。享年96。愛知県田原市出身。
中日新聞を含む国内の報道文化の発展に尽くされたほか、中日ドラゴンズではオーナーを務められ、監督だったあの落合博満さんの下での日本一達成を演出。初代中日ビル前での、あの若々しさ満点だった勝利宣言の声は今なお忘れられませんね。
在職中の間には4度のリーグ優勝も果たしました。ナゴヤドームの建設にも熱心に尽くされましたね。
さらに名古屋市教育委員長とか愛知県公安委員長なども務められました。
日中友好親善にも寄与され、当時の江沢民主席と北京市内で面会。日本人の観光渡航ノービザ化のきっかけにもなりましたね。尤も今はコロナ禍が尾を引き、恐らく再びビザが必要だろうが。うん。
定年退職で悠々自適どころか、むしろ晩年まで“滅私奉公”同然にも見えた白井さん。
ここに慎んで合掌しつつ、ご冥福をお祈り致します。
・追伸(11/5)………中日ドラゴンズの選手陣は在りし日の元オーナー、白井文吾さんを偲びつつ、ナゴヤ球場にて練習前に黙とうを捧げました。彼の晩年は残念ながらもリーグ最下位続きで、さぞや無念だったに違いなかろう。うん。