先日ejnewsさんが「
官僚が悪いのは政治家の怠慢が原因なのではないだろうか」に下さったコメントに触発されて、下記のようなコメントを書いたのですが、お目に触れにくいコメント欄ですので、ちょっと表に出したくなりました。
日本人がエコノミックアニマルと言われるようになったころのことが思い出されます。(過去記事「
浪花節の世界に帰える方がましかも」も宜しかったらご覧ください。)



ejnews様 (和久希世) (2009-04-26 )
コメント有難うございます。
引用された「人間は過去に生きた先祖達の残し蓄積した思想、科学知識、発見、発明品を利用し其の上に又一寸だけ何かを付け加えて生き続けているのです・・・・・」は、全くその通りだと思います。
キリスト教にも、仏教の影響があったでしょうし、回教もキリスト教の影響を受けたところがあるという話を聞いた事があります。
それぞれの時代、地域に合うように、
修正されたから、その教義はその地に根を下ろし、今日まで続いているということなのでしょう。
仏教にもキリスト教にも、回教、儒教にも、その他どの宗教にも、
恐らくそれぞれの祖師が唱えられたのとはかなり違う、
時代や地域の手垢が付いていて、悪い部分もたくさん追加されている事でしょう。
ですから時代にあった改革は、絶対必要であると私も思います。
只、思い出しますのに、
私の子供の頃には、浪花節の人気がまだ残っており,ラジオやテレビなどで、しょっちゅう浪花節の声が聞こえていたのですが、
ある頃を境に、ぴったりと消えてしまいました。
浪花節が聞かれなくなった頃から、
人々は義理人情を唱える人をつかまえて
「浪花節でもあるまいし・・・・」という言葉を投げかけるようになっていた様でした。
浪花節の主張するところには、
いわゆる封建思想が満ち満ちていますが、
義理とか人情という、人として大切な思想も含まれています。
浪花節を否定した時、日本人は「義理人情」という良い部分も捨てねばならないと思い違いをしたのではないかという気がするのです。
それ以後の日本に流行ったのは、エコノミックアニマルという言葉でした。
平等思想がもたらすものは、
相互に尊重しあうという良い部分ばかりではなく、
これからは門地にかかわらず平等だそうから、
ここは一番頑張って、自分の力でのし上がってやろうという風に考える者を、大勢生み出すきっかけにもなった様です。
それが学歴社会を生みだし、
人々は子供の頃から競争社会入りさせられる事にもなるし、
儲ける為だったら血も涙もないことをしても、平気な人間を生み出す契機にもなるもののようです。
平等思想に反するからと言って、儒教を全否定してしまったら、その他の良い部分まで全部否定して仕舞わねばならないと、人々は錯覚してしまうのではないでしょうか?
(それはどの宗教においてでも、同じかと思いますが)
悪い部分は時代に合わせて、修正する事にしても、その教えそのものを全否定してしまうのは、もっと悪い結果になるのではないかと思うのです。
代わりに、どんなにすばらしい教えを持ってこられたとしても、
民俗の血肉になるには、時間がかかるものですから、結局付け焼刃となって、以前よりも悪い結果を生み出す事になるかと思うのです。
民族のバックボーンとなっていたものは、悪いところは随時修正してでも、大事にして行ったほうが良いのではないでしょうか。
バックボーンを突然取り上げられたら、
人々は混乱し、自信を失くしてしまって、
結果として軽薄な我利我利亡者だらけになってしまうのではないかと危惧されます。