お釈迦様の出家された動機は、人間の生老病死の四苦について、悩まれたからであったというのは有名な話です。
悟られたお釈迦様は、
外的条件は悩んで出家された頃と全く同じなのに、
「煩悩即菩提」悩みに思えることが、そのまま悟りに通じるものであり、
「この世はこのままで、極楽浄土である。」と喝破されたのだそうです。
動物が互いに殺し合っている、地獄のような世界に見えるけれど、
本当は、万物は互いに生かしあって、生々加育のこの宇宙を形作っているのである、という事に気が付かれたのだそうですね。
総ては御仏の御心のまま、粛々と行われている。
今現在、自分の周りに問題があるとしたら、それは自分にとってその問題が必要だからであって、その問題に一生懸命取り組む事によって、新しい境地を得る事ができる。
それぞれの天命を果たす事を通じて、自分の人生を楽しみ、思考を深化させる為に、人はこの世に生を受けたのだから、
どんな事からも逃げないで立ち向かっていたら、おのずと道は開かれていくと、いうのが仏教の大元に有る思想ではないでしょうか?
宗教的に考えていくと、現在の世界に様々な不正義、不合理、非人情etcが有っても、それらはそれらと取り組む為に生まれた人々のためのものだから、そのままこの世は天国浄土、人に堪えられない試練を御仏は与え給わない、絶えられない時には安らかな眠り、即ち死を賜る。と言うわけです。
こんなことを言うのは非常に不人情、無責任の限りであると思うのですが、
一面の真理でもあるような気がしているのです。
国民の精神年齢が幼い時、国民はどうしようもない人間に騙されて、好い様に虐げられていても、何も改善の努力もしようとはしません。
日本は一時一億総中流と言われ、この世の春を謳歌していたのに、
いつの間にか格差社会の不合理、不人情な世界が現前しています。
私達の親の世代が、あの戦争で苦労の限りを経験して賢くなっていたから、
国民(公務員を含む)も互助の精神が出来、政治家達も国民の為になる政治を行って、現状を次々に改良して行っていたから、あのような一億総中流と言う、世界がうらやむような社会が築き上げられていたのでしょう。
私達の時代の者は、先人のお陰で恵まれて育って、苦労が足りなかったから、
先人の御苦労の結晶をもっと尊重して守って行けば、ずっと幸せに行けたかも知れないのに、それが出来なかったのだろうと思います。
物心ついたときから世の中は、良い方に向ってどんどん進歩していたので、
この状態が永遠に続くものと勘違いして、
政治家が改革と言ったら、今より更に良くなるものと、丸信じしてしまっていたようです。
日本人の殆どが、お金持ちのボンボンの感覚になっていたのかも知れません。
小泉改革と言う構造的日本社会改悪は、次の世代の人々に活を入れて、
新しい時代の人のため、社会を形成するるチャンスを与えられたのかもしれませんね。
仏教で言う、賽の河原で子供達が石を積み上げたら、鬼がやってきて毀してしまう。それでも子供達は又石を積み上げる。又鬼に毀される・・・・・
と言うのはこういう事を言っているのかも知れません。
見ようによっては鬼が毀してくれるから、又積み上げる事もできるというものであるとも言えるでしょう。
こんな事を考えていたら、政治運動も人生の楽しみと言うか、人生の味付けの一つなのではないかと言う気がしてきました。
人はみなそれぞれの立場で、それぞれの隣人を大事にして、自分に回ってきた課題をこなしていくべきものである。だから現状にイラつく事は無い。総ては解決される為に与えられた課題なのだから、慌てる事は無い。
鬼が石積みを毀してくれるので、又子供は石を積み上げて遊ぶ事ができる。
石積みを毀すのは、鬼ではなく御仏そのものである。
石を積み上げるという行為そのものが、人生の目的なのだから・・・・・
こんな事を思った時点で、私はもう今の政治運動に混ぜていただける資格を失っているという事に気がついたのでした。
人生は真剣勝負であるところに、醍醐味が有るのですから・・・・・