誰もが知る飛鳥時代の偉人、聖徳太子(574~622年)。今年はその1400年遠忌に当たり、連載企画「和をつなぐ」では生涯や連綿と受け継がれてきた太子信仰を紹介している。太子をめぐる謎に焦点をあてその人物像に迫った第1部に続き、第2部では伝承が残るゆかりの地を訪ね、若き日の足跡をたどる。
太子の母「厩の戸口で出産」
今年1400年の遠忌を迎えて注目される聖徳太子。連綿と受け継がれる太子信仰の一方で、伝説も多くその生涯には謎が多い。
そもそも聖徳太子は死後に贈られた名で、「厩戸(うまやと)」が本名とされる。太子はどこで生まれ、「厩戸」の名のルーツは何か-。
日本書紀によると、敏達(びたつ)3(574)年のこと。
<皇后はご出産予定日に宮中を視察され、馬の飼育を司る役所に至ったとき、厩の戸口で、難なく急に出産された>
皇后とは、太子の母で31代用明(ようめい)天皇の妻、穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)。宮中の厩(馬小屋)の前で産気づいたというこの誕生譚(たん)が「厩戸」の由来ともいわれる。
その「厩」は、研究者らの想像をかき立てた。イエス・キリストの降誕説話をも思わせたからだ。明治・大正時代の歴史学者、久米邦武(くめくにたけ)はその太子誕生譚への影響を指摘したが、傍証は乏しい。敏達天皇の時代だが、宮がどこかもよくわからない。
聖徳皇太子御誕生所」-。奈良県明日香村の橘(たちばな)寺(天台宗)の入り口に、そう刻まれた石碑が建つ。
「聖徳皇太子御誕生所」の石碑が立つ橘寺への入り口。太子信仰の聖地の一つだ=奈良県明日香村
寺伝によると、太子が生まれた当時、ここには祖父にあたる29代欽明天皇の別宮があったという。太子は30代のときに勝鬘経(しょうまんぎょう)(大乗仏教の経典の一つ)を説き、推古天皇に命じられて建てたのが同寺と伝えられる。
高台に広がる境内には、聖徳太子坐像(ざぞう)(重文、室町時代)を本尊とする本堂や観音堂(修理中)などが並ぶ。本堂のそばには愛馬・黒駒(くろこま)の像もあり、いかにも太子ゆかりの寺らしい。
奈良県明日香村にある橘寺
一方「厩戸」は、日本書紀にある地名の「厩坂(うまやさか)」(奈良県橿原市)を指すとする説も。古市晃・神戸大教授は用例から「戸」と「坂」を同義とみて、「34代舒明(じょめい)天皇が一時的に使った宮があり、その前は太子生育の地としても考えられる」と推測する。
一帯は「軽(かる)」と呼ばれ、豪族、蘇我(そが)氏の影響下にあったという。当時はその蘇我氏が政治を担った時代だ。太子は蘇我氏とのつながりが深く、当時の実力者は蘇我馬子(うまこ)だった。
「観音の化身」として信仰も
太子が生まれた頃の社会情勢について日本書紀から「馬子が財政に関わるなど朝廷の基盤を築くために尽くし、外交では朝鮮半島情勢にどう対応するかが課題だった」と説明するのは立命館大学の本郷真紹(まさつぐ)教授。
また、半島から伝わった仏教をめぐっては、積極的に受け入れる蘇我氏に対し、物部(もののべ)氏が対立した。
太子の両親はともに蘇我氏出身の母を持ち、馬子にとってはおい、めいにあたる。父の用明天皇は仏教を信仰しており、本郷教授は「(太子は)仏教などに親しんだだろう」と考える。
太子は仏法興隆に尽くしたとされる。後に太子自身が観音の化身とされ、信仰を集めた。
そんな太子への信仰をいまに伝える寺院の一つ、橘寺の高内良輯(りょうしゅう)住職は「今は人の心が乱れ、太子が作った十七条憲法にある和の精神も薄れつつあるのではないか。今こそ『和』を日本人の心として見直してほしい」といい、コロナ禍のいまに生きる太子信仰の意義を感じている。
聖徳太子の前世 奈良時代以降、聖徳太子は中国・南北朝時代の高僧、慧思(えし)の生まれ変わりと伝えられた。慧思は中国天台宗の初祖に次ぐ第2祖として崇敬され、晩年には南岳衡山(なんがくこうざん)(湖南省)で修行した。太子は小野妹子(おののいもこ)を隋に派遣し、前世で慧思だったときに持っていた法華経(ほけきょう)を持ち帰らせたという。
こうした太子の「慧思後身説」は後に来日を果たす唐の高僧、鑑真(がんじん)が渡航した動機に関わるとも。
また、太子は救世(くせ)観音の化身とされ、等身大という救世観音像が安置された奈良・法隆寺東院の夢殿は太子信仰の聖地となった。