<禅との出会い>
ゆみと別れて半年ほど経った頃、彼女と同じ学校に勤務している達也の親戚筋の方が母を訪れ、相手を達也と勘違いされ、
「婚約されたそうで、おめでとうございます」と言われた。
そこで、初めてゆみが別の方と婚約したことを知ることとなった。と同時に、職場ではゆみが達也と交際していたことが知られていたと言うことであり、彼女には大変な迷惑をかけてしまった。
さらに、その後、車同士のすれ違いに赤ちゃんを抱いているゆみを見かけるに至って、言いようのない悔しさ・淋しさを伴う敗北感に襲われるのであった。
ゆみと別れて、達也はまるで肉親が亡くなった時のような喪失感におそわれ、彼女の存在が如何に大きかったかを知らされることとなった。
自分の方から別れておきながら、こんな気持ちになったのは初めてであり、誰の言葉か忘れたが、次のような心境であった。
幸福というのは不思議なもの。
自分の掌に抱いている時は、それほどに感じられない。
まだおとずれていないか、逃げ去ってしまうと、その姿をいたずらに追い求める。
そして、その影を追えば追うほど遠ざかる。
空を横切る雲のように速足で・・・・・・・。
また
「幸運の女神には前髪しかない」 という西洋の諺がある。
幸運の女神に出会ったら前髪を掴め
後ろ髪がないから、通り過ぎたら掴む所がない
このような心の状態では他の女性との出会いを求める気にはなれなかった。
とは言っても、達也も年齢が年齢だけに母はいろんな女性の話を持ってきたし、会社関係からも幾つか話がきた。
中には自分の意思にかかわらず話が進んでしまいそうになったことがあった。
「なぜ、ゆみを失ったしまったのか」という心の葛藤がおこり、仕事の行き詰まりも重なり一時期精神的に不安定になった。さらには、今の自分は夢を見ているのではないだろうか?
寝て目が覚めたら、ゆみが傍にいるのではないかという現実逃避の気持ちもおこってしまった。
何とかその件が解決されると、少しづつ心の安定を取り戻したが、自分の心の弱さを知った達也は曹洞宗の門を叩き禅の世界に活路を見出そうとした。
初めて門を叩いた時、方丈さんが本気度を試すためか容赦ない警策を入れられた。
八の日の早朝六時から一時間の座禅、般若心経の読経、早朝作務、最後に梅干をお供にお茶を戴くのであった。
曹洞宗は儀式仏教と言われるように作法が細かく決められている。
まず山門を入ってから作務が終わるまで無言を通さなければならない。
挨拶は合掌し一礼するだけであり、堂への入り方、歩き方、座り方、経本の持ち方、ページのめくり方に至るまで作法が決まっており、各動作の区切りは雲版や鐘で合図される。
達也の座禅は只管打坐には程遠く雑念の連続であったが、なるべく思考を連鎖しないように勤めた。その結果、暁天座禅のあとは朝の爽やかさも加わり心もなんとなく爽やかになった。
参禅会に参加される年代、地域、職業の異なる多くの方と交わることが出来視野が広がり今まで知らなかった世界を見る感じであった。
そうこうするうちに、会の会計を担当させられ方丈さんの意向を伺いながら会の運営に携わるようになり、参禅以外にも寺の行事にかり出されるようになった。
参禅を機に良寛禅師に引かれ、出雲崎、輪島、島崎、国上寺などゆかりの地を何回か訪れた。
また、現代の名僧沢木興道の全集も揃え勉強しようとしたが中々難解で挫折してしまい積読になっているが、いつの日か読破したい。
さらには、山陽地方への転勤後も良寛の修行の寺である玉島円通寺の参禅会にも参加した。
円通寺は往時のような修行の場というよりは良寛観光としての面が色濃く、故郷の寺での参禅のような厳格さはなかった。
円通寺の参禅会のなかに京大出身で三菱商事に勤務されていた方が得度され永平寺へ入られるということがあった。
ご両親は嘆かれ反対されたそうであるが、世の中高度成長で人心を失いかけていた頃でもあり、生き方を禅に求める若者が珍しくなかった。
ゆみと別れて半年ほど経った頃、彼女と同じ学校に勤務している達也の親戚筋の方が母を訪れ、相手を達也と勘違いされ、
「婚約されたそうで、おめでとうございます」と言われた。
そこで、初めてゆみが別の方と婚約したことを知ることとなった。と同時に、職場ではゆみが達也と交際していたことが知られていたと言うことであり、彼女には大変な迷惑をかけてしまった。
さらに、その後、車同士のすれ違いに赤ちゃんを抱いているゆみを見かけるに至って、言いようのない悔しさ・淋しさを伴う敗北感に襲われるのであった。
ゆみと別れて、達也はまるで肉親が亡くなった時のような喪失感におそわれ、彼女の存在が如何に大きかったかを知らされることとなった。
自分の方から別れておきながら、こんな気持ちになったのは初めてであり、誰の言葉か忘れたが、次のような心境であった。
幸福というのは不思議なもの。
自分の掌に抱いている時は、それほどに感じられない。
まだおとずれていないか、逃げ去ってしまうと、その姿をいたずらに追い求める。
そして、その影を追えば追うほど遠ざかる。
空を横切る雲のように速足で・・・・・・・。
また
「幸運の女神には前髪しかない」 という西洋の諺がある。
幸運の女神に出会ったら前髪を掴め
後ろ髪がないから、通り過ぎたら掴む所がない
このような心の状態では他の女性との出会いを求める気にはなれなかった。
とは言っても、達也も年齢が年齢だけに母はいろんな女性の話を持ってきたし、会社関係からも幾つか話がきた。
中には自分の意思にかかわらず話が進んでしまいそうになったことがあった。
「なぜ、ゆみを失ったしまったのか」という心の葛藤がおこり、仕事の行き詰まりも重なり一時期精神的に不安定になった。さらには、今の自分は夢を見ているのではないだろうか?
寝て目が覚めたら、ゆみが傍にいるのではないかという現実逃避の気持ちもおこってしまった。
何とかその件が解決されると、少しづつ心の安定を取り戻したが、自分の心の弱さを知った達也は曹洞宗の門を叩き禅の世界に活路を見出そうとした。
初めて門を叩いた時、方丈さんが本気度を試すためか容赦ない警策を入れられた。
八の日の早朝六時から一時間の座禅、般若心経の読経、早朝作務、最後に梅干をお供にお茶を戴くのであった。
曹洞宗は儀式仏教と言われるように作法が細かく決められている。
まず山門を入ってから作務が終わるまで無言を通さなければならない。
挨拶は合掌し一礼するだけであり、堂への入り方、歩き方、座り方、経本の持ち方、ページのめくり方に至るまで作法が決まっており、各動作の区切りは雲版や鐘で合図される。
達也の座禅は只管打坐には程遠く雑念の連続であったが、なるべく思考を連鎖しないように勤めた。その結果、暁天座禅のあとは朝の爽やかさも加わり心もなんとなく爽やかになった。
参禅会に参加される年代、地域、職業の異なる多くの方と交わることが出来視野が広がり今まで知らなかった世界を見る感じであった。
そうこうするうちに、会の会計を担当させられ方丈さんの意向を伺いながら会の運営に携わるようになり、参禅以外にも寺の行事にかり出されるようになった。
参禅を機に良寛禅師に引かれ、出雲崎、輪島、島崎、国上寺などゆかりの地を何回か訪れた。
また、現代の名僧沢木興道の全集も揃え勉強しようとしたが中々難解で挫折してしまい積読になっているが、いつの日か読破したい。
さらには、山陽地方への転勤後も良寛の修行の寺である玉島円通寺の参禅会にも参加した。
円通寺は往時のような修行の場というよりは良寛観光としての面が色濃く、故郷の寺での参禅のような厳格さはなかった。
円通寺の参禅会のなかに京大出身で三菱商事に勤務されていた方が得度され永平寺へ入られるということがあった。
ご両親は嘆かれ反対されたそうであるが、世の中高度成長で人心を失いかけていた頃でもあり、生き方を禅に求める若者が珍しくなかった。
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