<山陽地方への転勤>
いつになっても結婚しない達也に対し、世間では何か欠陥があるのではないかとの陰口を言う人もいたようだ。
「そんな子供を生んだ覚えはない」「七十歳を過ぎて内孫が居ないのは自分だけだ」と言って母を悲しませてしまい、結果的に親不孝をしてしまった。
また、従来は縁談を断ることが殆どであったものが、その頃になると、断られるケースが増えてきた。
そうこうするうち、今の妻の積極性に押され、遂に達也も家庭を持ち子供も授かるのであった。
妻の積極性がなかったら、ゆみを想い一生独身で家庭を持てなかったような気がしている。
その後、達也は山陽地方に転勤することになり、丁度瀬戸大橋の工事期間を挟んで約十年間故郷を留守にした。
年老いた母と祖母を故郷に残すに当たり、達也は親戚に後事をお願いした。
また、達也の家族は子供の夏休みの殆んどを故郷で母と過ごした。
盆には達也も一週間ほど帰省し、家族全員で倉敷に戻ることが多かった。
母が故郷に居た時は出来るだけ正月も家族で帰省するようにしていた。
山陽での達也は人生で一番充実していた時期でもあった。
社宅も広く、妻の兄などはその広さにびっくりしていたそうである。
仕事の方でも、NHKの「プロジェクトX」に描かれたドラマに近い感動を仕事で味わうことも出来、毎日が希望に満ちていた。
達也はある全社的プロジェクトを主催していたので、年に数回は東京で金曜日に会議を開催し、終了後故郷の母のところで一、二泊し北陸線で山陽へ帰るのであった。
故郷に帰り日常の喧騒から開放されて一人になると、
「ああ、ゆみもこの同じ空の下で、同じ空気を吸っているんだなあ」と懐かしく思い出すのであった。
達也は社内ばかりでなく、社外の方々ともとも親しくさせて頂き、ゴルフなどは平均して月に二回ほどプレーした。
回数の多さに比例せず、かつレッスンプロに付いたにも拘わらずスコアは一向によくならなかったが、プレーに加え景色も十分に堪能した。
瀬戸内海を見下ろすコースや満開の桃の花を見ながらのプレー、中でも鳥取県の大山高原での一泊二日のプレーは一番印象が強い。
地元に帰ってからも数回コンペに参加したが、馴染めずにゴルフそのものを止めてしまった。
また、達也の性格として論理的かつ定量的に物事を処理することを重視していたことから、大学の先生とも交流させていただき、広島大学のある先生には飲み会の席とは言え「弟子にならないか」と誘われて悪い気はしなかった。
母も転勤当初数年間は冬になると家を留守にし、気候のよい山陽で過ごした。
母に「皆はこちらに永住しても良いよ」とまで言われ、とりあえず土地は手当てしたが、肝心の達也は望郷の念が強く家を建てる気にはなれなかった。
故郷に戻るに当たり土地を処分したが、その後すぐ近くに“マスカット球場”が建設されプロ野球の公式戦が開催されるようになり当時とは様変わりに発展したようである。
達也は山陽を拠点に瀬戸内海の宮島、小豆島などの島々、中北九州、山口県、島根県、鳥取県、広島県、兵庫県、四国と各地によく家族で旅行にでかけた。
母にも経験することのなかった潮干狩りをやってもらったし、忠臣蔵ゆかりの赤穂城へも案内できた。
また、瀬戸大橋が完成すると達也の姉たちも訪ねてきて、岡山の後楽園、倉敷美観地区を見学し、航路が瀬戸大橋沿いのフェリーで島に渡り一泊、翌日は四国に渡り金比羅、栗林公園などを観光し車で瀬戸大橋を渡り社宅で泊まり、翌日はまた岡山県内を案内した。
ゆみと結婚していたらどうだったろう。転勤が一番の危機になったのではなかろうか。
「果たして、彼女は育児のため仕事をやめてくれたであろうか」
「転勤先に一緒に来てくれたであろうか」
「単身赴任だったら、夏休みなどは転勤先へ来てくれたであろうか」
「でも、ゆみのご両親のこともあって無理は言えなかったであろうし」
などと達也として気掛かりな面がある一方、一番充実していた時期をゆみと過ごすことが出来なかった悔しさが残ってしまう。
達也は故郷で一人暮らしの母が八十歳を向かえるや、故郷で一緒に暮らすべきだとの想いが強くなった。そんな訳で、会社での立場が不利になることを承知で故郷に転勤させてもらった。
達也は故郷に帰ってから、ゆみの実家の近くへ出かける機会があった。
ゆみは其処にいる筈がないのに自然と足がゆみの実家の方へ向いてしまった。
しばしその家を見て郷愁に浸るのであった。
ゆみの実家は空き家の様子で、ご両親はゆみの家族とでも同居されているのであろうか?などと思いを馳せるのであった。
いつになっても結婚しない達也に対し、世間では何か欠陥があるのではないかとの陰口を言う人もいたようだ。
「そんな子供を生んだ覚えはない」「七十歳を過ぎて内孫が居ないのは自分だけだ」と言って母を悲しませてしまい、結果的に親不孝をしてしまった。
また、従来は縁談を断ることが殆どであったものが、その頃になると、断られるケースが増えてきた。
そうこうするうち、今の妻の積極性に押され、遂に達也も家庭を持ち子供も授かるのであった。
妻の積極性がなかったら、ゆみを想い一生独身で家庭を持てなかったような気がしている。
その後、達也は山陽地方に転勤することになり、丁度瀬戸大橋の工事期間を挟んで約十年間故郷を留守にした。
年老いた母と祖母を故郷に残すに当たり、達也は親戚に後事をお願いした。
また、達也の家族は子供の夏休みの殆んどを故郷で母と過ごした。
盆には達也も一週間ほど帰省し、家族全員で倉敷に戻ることが多かった。
母が故郷に居た時は出来るだけ正月も家族で帰省するようにしていた。
山陽での達也は人生で一番充実していた時期でもあった。
社宅も広く、妻の兄などはその広さにびっくりしていたそうである。
仕事の方でも、NHKの「プロジェクトX」に描かれたドラマに近い感動を仕事で味わうことも出来、毎日が希望に満ちていた。
達也はある全社的プロジェクトを主催していたので、年に数回は東京で金曜日に会議を開催し、終了後故郷の母のところで一、二泊し北陸線で山陽へ帰るのであった。
故郷に帰り日常の喧騒から開放されて一人になると、
「ああ、ゆみもこの同じ空の下で、同じ空気を吸っているんだなあ」と懐かしく思い出すのであった。
達也は社内ばかりでなく、社外の方々ともとも親しくさせて頂き、ゴルフなどは平均して月に二回ほどプレーした。
回数の多さに比例せず、かつレッスンプロに付いたにも拘わらずスコアは一向によくならなかったが、プレーに加え景色も十分に堪能した。
瀬戸内海を見下ろすコースや満開の桃の花を見ながらのプレー、中でも鳥取県の大山高原での一泊二日のプレーは一番印象が強い。
地元に帰ってからも数回コンペに参加したが、馴染めずにゴルフそのものを止めてしまった。
また、達也の性格として論理的かつ定量的に物事を処理することを重視していたことから、大学の先生とも交流させていただき、広島大学のある先生には飲み会の席とは言え「弟子にならないか」と誘われて悪い気はしなかった。
母も転勤当初数年間は冬になると家を留守にし、気候のよい山陽で過ごした。
母に「皆はこちらに永住しても良いよ」とまで言われ、とりあえず土地は手当てしたが、肝心の達也は望郷の念が強く家を建てる気にはなれなかった。
故郷に戻るに当たり土地を処分したが、その後すぐ近くに“マスカット球場”が建設されプロ野球の公式戦が開催されるようになり当時とは様変わりに発展したようである。
達也は山陽を拠点に瀬戸内海の宮島、小豆島などの島々、中北九州、山口県、島根県、鳥取県、広島県、兵庫県、四国と各地によく家族で旅行にでかけた。
母にも経験することのなかった潮干狩りをやってもらったし、忠臣蔵ゆかりの赤穂城へも案内できた。
また、瀬戸大橋が完成すると達也の姉たちも訪ねてきて、岡山の後楽園、倉敷美観地区を見学し、航路が瀬戸大橋沿いのフェリーで島に渡り一泊、翌日は四国に渡り金比羅、栗林公園などを観光し車で瀬戸大橋を渡り社宅で泊まり、翌日はまた岡山県内を案内した。
ゆみと結婚していたらどうだったろう。転勤が一番の危機になったのではなかろうか。
「果たして、彼女は育児のため仕事をやめてくれたであろうか」
「転勤先に一緒に来てくれたであろうか」
「単身赴任だったら、夏休みなどは転勤先へ来てくれたであろうか」
「でも、ゆみのご両親のこともあって無理は言えなかったであろうし」
などと達也として気掛かりな面がある一方、一番充実していた時期をゆみと過ごすことが出来なかった悔しさが残ってしまう。
達也は故郷で一人暮らしの母が八十歳を向かえるや、故郷で一緒に暮らすべきだとの想いが強くなった。そんな訳で、会社での立場が不利になることを承知で故郷に転勤させてもらった。
達也は故郷に帰ってから、ゆみの実家の近くへ出かける機会があった。
ゆみは其処にいる筈がないのに自然と足がゆみの実家の方へ向いてしまった。
しばしその家を見て郷愁に浸るのであった。
ゆみの実家は空き家の様子で、ご両親はゆみの家族とでも同居されているのであろうか?などと思いを馳せるのであった。
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