少数派シリーズ/東京オリンピックの危うさVOL.8
ROUND1 東京オリンピックまやかしの開催編8
いつの時代も為政者は最大限にオリンピックを政治利用する(街場の五輪論から)
オリンピック募金切手のご案内・第1次(レスリング) 1961年発行
ブログを移転したため、投稿日と記事の日時・状況と整合性がありません。記事は2015年8月、旧ブログに投稿したものです。アスリートファーストの尊重は微塵もなく、政治家・経済界・五輪関係者などは己の思惑・利益・保身のために、東京オリンピックの悪用が目に余ります。年月が経過しても、ブログにてその検証や事実を残しておく必要があると考えます。
たまたま東京オリンピック関係の本を読んでいたら、「街場の五輪論」共著:内田樹(たつる)・小田嶋隆・平川克美、に巡り合いました。あまりにも投稿者と同じ考え方であったので、何だかくすぐったい気持ちで、あっと言う間に読み終えた次第です。印象深いところを、多面的にご紹介します。2013年の招致決定時点では、メディアを含め日本中が喜んでいました。しかしその後冷静に考えれば、予算・開催の意義、その他の点で多々問題があることが、段々と国民に分かってきたようです。皆様も、下記の内容に共感することが多いのではないでしょうか? 共著者の主張を、ピックアップします。
『オリンピックの代表選手は、異口同音に「オリンピックは特別」と言う。特別であるからこそ、一国の総理大臣がわざわざ招致のプレゼンテーションで訴える。世界陸上やグラチャンバレーの招致では、工作に行かないだろう。東京招致のプレゼンでは、総理・元総理のオンパレード。総理や(元)都知事などの猫なで声に作り笑い、いかにも作り物と分かる身振り手振りの大きさ。そのへつらう姿に、国民として情けないどころか、腹立たしくなった。』
『単なるスポーツ大会の呼び込みなのに、なぜ政治家がそこまでやるのか?それは実に簡単な話で、オリンピックは国威発揚の場所であり、過剰な商業的取引の場所だからだ。開催国による政治的プロパガンダができ、利権ができ、政権与党の強固な支持率確保ができる。国民的熱狂は、求心力を最大化したい為政者にとって、喉から手が出るほど欲しいものだ。若い方と違い年嵩を増すと、そうした背景がいとも簡単に透けて見えてくる。単純に、技を競う大会には思えない。』
『「為政者の己のため」にオリンピックを開催した典型的な例は、ヒットラーの世界的野望から開かれた1936年・ベルリン大会、そして次の大会は日本初となる予定だった1940年・紀元二千六百年記念大会(戦争で中止)。東京が開催されていたら、どちらも極めて政治利用された大会だったろう。最近でも、2008年の北京大会。中国の世界へのお披露目の場とされ、プンプンと政治臭がする大会だった。どの国の為政者でも、意図的にオリンピックを政治利用するのは当たり前だ。』
『もう発展途上国のようなお祭り騒ぎではなく、成熟国・日本として、日本らしい落ち着いた大会を目指し、今後の大会のモデルになってもらいたい。新しい競技場も要らない、使えるものは補修し、派手なセレモニーも要らない。まあ~そんな見識があれば、そもそもオリンピックなんて呼ばないだろうな… 私達の言い分は負け犬の遠吠えであっても、無駄骨する意義あり。国民の中には、そう思う方が少なからずいるはずだ。』
ここからは、投稿者の文章です。私も、オリンピック精神やアスリートファーストから遠く離れてしまっていると思います。またオリンピックを利用した国家権力の誇示、どさくさ紛れの無駄な経済投資も酷いものです。競技場を始め経済インフラを含めたら、数兆円いや10兆円規模でしょう。1つのオリンピックにそんなお金を掛けるより、1桁少なくても、将来に向けた長期・広範囲な選手強化や底辺の拡大、国民全体へのスポーツ振興や健康維持に充てるべきです。そうすれば、日本国民は十分に北欧並みの“スポーツと運動を楽しむ国”になり得ます。今からでも、賢い選択をして欲しいものです。
ROUND1 東京オリンピックまやかしの開催編8
いつの時代も為政者は最大限にオリンピックを政治利用する(街場の五輪論から)
オリンピック募金切手のご案内・第1次(レスリング) 1961年発行
ブログを移転したため、投稿日と記事の日時・状況と整合性がありません。記事は2015年8月、旧ブログに投稿したものです。アスリートファーストの尊重は微塵もなく、政治家・経済界・五輪関係者などは己の思惑・利益・保身のために、東京オリンピックの悪用が目に余ります。年月が経過しても、ブログにてその検証や事実を残しておく必要があると考えます。
たまたま東京オリンピック関係の本を読んでいたら、「街場の五輪論」共著:内田樹(たつる)・小田嶋隆・平川克美、に巡り合いました。あまりにも投稿者と同じ考え方であったので、何だかくすぐったい気持ちで、あっと言う間に読み終えた次第です。印象深いところを、多面的にご紹介します。2013年の招致決定時点では、メディアを含め日本中が喜んでいました。しかしその後冷静に考えれば、予算・開催の意義、その他の点で多々問題があることが、段々と国民に分かってきたようです。皆様も、下記の内容に共感することが多いのではないでしょうか? 共著者の主張を、ピックアップします。
『オリンピックの代表選手は、異口同音に「オリンピックは特別」と言う。特別であるからこそ、一国の総理大臣がわざわざ招致のプレゼンテーションで訴える。世界陸上やグラチャンバレーの招致では、工作に行かないだろう。東京招致のプレゼンでは、総理・元総理のオンパレード。総理や(元)都知事などの猫なで声に作り笑い、いかにも作り物と分かる身振り手振りの大きさ。そのへつらう姿に、国民として情けないどころか、腹立たしくなった。』
『単なるスポーツ大会の呼び込みなのに、なぜ政治家がそこまでやるのか?それは実に簡単な話で、オリンピックは国威発揚の場所であり、過剰な商業的取引の場所だからだ。開催国による政治的プロパガンダができ、利権ができ、政権与党の強固な支持率確保ができる。国民的熱狂は、求心力を最大化したい為政者にとって、喉から手が出るほど欲しいものだ。若い方と違い年嵩を増すと、そうした背景がいとも簡単に透けて見えてくる。単純に、技を競う大会には思えない。』
『「為政者の己のため」にオリンピックを開催した典型的な例は、ヒットラーの世界的野望から開かれた1936年・ベルリン大会、そして次の大会は日本初となる予定だった1940年・紀元二千六百年記念大会(戦争で中止)。東京が開催されていたら、どちらも極めて政治利用された大会だったろう。最近でも、2008年の北京大会。中国の世界へのお披露目の場とされ、プンプンと政治臭がする大会だった。どの国の為政者でも、意図的にオリンピックを政治利用するのは当たり前だ。』
『もう発展途上国のようなお祭り騒ぎではなく、成熟国・日本として、日本らしい落ち着いた大会を目指し、今後の大会のモデルになってもらいたい。新しい競技場も要らない、使えるものは補修し、派手なセレモニーも要らない。まあ~そんな見識があれば、そもそもオリンピックなんて呼ばないだろうな… 私達の言い分は負け犬の遠吠えであっても、無駄骨する意義あり。国民の中には、そう思う方が少なからずいるはずだ。』
ここからは、投稿者の文章です。私も、オリンピック精神やアスリートファーストから遠く離れてしまっていると思います。またオリンピックを利用した国家権力の誇示、どさくさ紛れの無駄な経済投資も酷いものです。競技場を始め経済インフラを含めたら、数兆円いや10兆円規模でしょう。1つのオリンピックにそんなお金を掛けるより、1桁少なくても、将来に向けた長期・広範囲な選手強化や底辺の拡大、国民全体へのスポーツ振興や健康維持に充てるべきです。そうすれば、日本国民は十分に北欧並みの“スポーツと運動を楽しむ国”になり得ます。今からでも、賢い選択をして欲しいものです。