安祥寺の山門をくぐりました。山門脇には寺のマスコットキャラクターらしき高野聖ふうの「こうやくん」のパネルがありました。高野山真言宗に属する寺ですから「こうやくん」なのでしょう。大変に分かり易いネーミングです。
山門の傍らの案内説明板です。嫁さんが、寺の開基である恵運が空海の孫弟子であるのを初めて知り、「この人も中国へ渡ったのかな」と言いました。
その通り、恵運はいわゆる入唐八家のひとりです。入唐八家とは、平安初期に唐に渡って日本に密教経典を請来した八人の僧のことです。最澄、空海、常暁、円行、円仁、恵運、円珍、宗叡を指します。
恵運は山城国安曇郷の出で、出家前の俗姓は安曇氏でありました。初めは奈良の東大寺や薬師寺などで法相教学を学びましたが、後に真言宗の実恵(空海の弟子)の門下に入りました。その後、承和九年(842)に唐の商人李処人の船で唐に渡り、長安の青龍寺で義真に灌頂を受け、五台山・天台山を巡拝しました。
五年後の承和十四年(847)に帰国し、その翌年に仁明天皇女御の藤原順子の発願により京都安祥寺を開創しました。その功績により僧都に任じられ、安祥寺僧都と称されました。
山門をくぐって境内地に入ると、山裾の傾斜地を整地した段丘のうえに諸堂が並ぶのが見えました。上図中央奥に見えるのが本堂です。その右側に他の諸堂が並びますが、ほとんどは樹木に隠れていて、近づくまで見えませんでした。
現在の境内地は、かつての安祥寺下寺の伽藍が応仁の乱によって全滅した後、江戸時代に残余の仏像寺宝をかき集めて移転して再建した場所にあたります。
本来の下寺の伽藍域は、いま東寺の所蔵となっている恵運作成の「安祥寺伽藍縁起資財帳」によれば、現在のJR山科駅の辺りとされていますが、1993年の地下鉄東西線の建設にともなう発掘調査では明確な遺構は確認されなかったと聞きます。位置がもう少し北側、山寄りではないかとする説もありますが、現在は住宅地になっていて、地下の遺構を確かめるのは不可能であるそうです。
本堂の前まで進みました。嫁さんがここで立ち止まって周囲を見回した後、右側を指さして、あのお堂から回りましょう、と言いました。
あのお堂、とは境内地の東側に並ぶ大師堂と地蔵堂のことでした。そのまま嫁さんにしたがってついて行きました。
まずは大師堂の前に進みました。江戸時代の安永二年(1773)の建立で、本尊は弘法大師像です。
大師堂の内陣には、本尊の弘法大師像を中心にして左右に四人の僧の肖像が祀られます。開基の恵運僧都像、第十一世にして安祥寺流々祖の宗意律師像、第二十一世興雅僧正像、第二十二世宥快法印像とされています。
このうち恵運僧都像のみが平安時代の遺品で、後は全て江戸時代の作とされています。恵運僧都像は、かつての下院の伽藍のいずれかに祀られていたものが幸いにして現存しているわけで、貴重な遺品です。
続いて北隣の地蔵堂へと向かいました。
地蔵堂は江戸時代の明和九年(1772)の建立で、本尊は地蔵菩薩像です。
地蔵堂の内陣です。厨子に安置される地蔵菩薩坐像は鎌倉時代後期の作とされますが、寺伝では恵運が中国より請来したものということになっています。本当に請来像であれば唐代の彫像であるはずですが、実際には鎌倉時代と同時期の宋代の彫刻の影響下に作られた日本の彫像です。 (続く)