安祥寺境内地には、失われた建物の遺跡もあります。地蔵堂を拝した後に北側へ回り、少し高くなっている平坦地へあがると、上図の礎石が並んで残る正方形の建物跡の基壇が残っています。
真新しい案内板が基壇の傍らにありました。明治39年に焼失した多宝塔の跡です。その本尊がいま京都国立博物館に寄託されている国宝の五智如来坐像です。
嫁さんはこの案内板を見て、あっ、という表情になりました。京都国立博物館に寄託されている国宝の五智如来坐像の姿を思い出したのでしょう。長らく京都国立博物館の仏像展示室の主役として親しまれている5体の仏像ですから、京都の人でもかなりの方が知っていると聞きます。
ですが、その雄大な国宝の五智如来坐像が本来はここ安祥寺の安置像であったことは、あまり知られていません。仏教美術を学び、仏像彫刻史を専攻していた者でも、九世紀代の真言密教系彫像の基準作例の一つ、として覚えますが、その元の位置の安祥寺へ訪ねて行く方は稀である、と聞きます。
私自身も、京都国立博物館で五智如来坐像に初めて接したのは昭和57年、高校一年生の時でしたが、所蔵元の安祥寺を訪ねたのはその6年後の昭和63年のことでした。そして多宝塔跡に立って、ここにあの五像が、と信じられない気分になったことを覚えています。
いま再び立ってみて、嫁さんが「小さな建物ですね、ほんまにあの五智如来像がここに入っていたんですか?」と不思議そうに言うのを聞くまでもなく、やっぱり多宝塔の建物はちょっと小さかったのかもな、と思いました。
もともと江戸期の再建でサイズ的には仏像とマッチしていなかったらしい、との伝承もあったぐらいですから、かなり窮屈だったのでしょう。そのためかどうか、五智如来坐像は早々と京都国立博物館に寄託されましたが、おかげで、その後の多宝塔の火事に巻き込まれることもなく、無事に今日まで伝わっています。
多宝塔跡から今度は西に降りていき、上図の鎮守青龍殿の社へと向かいました。令和3年夏に復興整備を完了してかつての姿を取り戻した境内鎮守社の構えを、初めて拝しました。
昭和63年に調査見学で参拝した時は、この社を見ていません。というか、見た記憶が全くありません。その頃は神域も埋もれて寂れ、林間に社殿がひっそりと建つのみであったそうですから、本堂の安置像と多宝塔跡だけを訪ねて終わっています。
ただ、この青龍殿から昭和28年に発見された中国唐代の石造品「蟠龍石柱」が京都国立博物館に寄託展示されていたので、五智如来坐像と共に見に行った記憶があります。
現地の案内板にも、その「蟠龍石柱」の図版がありました。安祥寺にも深く関与した平安時代初期の僧、恵萼(えがく)が唐より請来して安祥寺に奉納した「仏頂尊勝陀羅尼石童一基」の一部であろうとされています。
この「仏頂尊勝陀羅尼石童一基」は、「安祥寺資材帳」の記載によれば上寺に建てられていたとあり、石童とは中国式の石灯籠を指しましたから、その一部つまり竿部の石柱にあたる「蟠龍石柱」は、その遺品とみて間違いないと思われます。仮に上寺の遺跡を発掘すれば、この「蟠龍石柱」に関連する他の部位の遺品も見つかるかもしれません。
唐代の京幾様式石灯籠の遺品であり、現存部分だけで105センチもあり、日本には産出しない漢白玉の製品で三匹の龍を彫り表しています。おそらく上寺が廃絶した南北朝期に、その残存の寺宝を下寺へ収容したなかにこの「蟠龍石柱」も含まれていて、後に鎮守社の御神体として祀られたのでしょう。
その御神体の「蟠龍石柱」は、いまも京都国立博物館に寄託展示されていますから、現在の社殿にはそれに代わる何らかの宗教的遺品が祀られているようですが、それに関する言及は案内板にはありませんでした。
嫁さんが「蟠龍石柱のレプリカとかじゃないですかね?」と言いましたが、その可能性もあるでしょう。
いずれにしても、周囲に石垣を築いて神域を区画し、これを水濠で囲む大層な構えの神殿なので、社殿内が空っぽというのは考えにくいです。「蟠龍石柱」に代わる何かを祀っていると考えたほうが自然なのですが、安祥寺の公式サイトにおいても、この青龍殿の神体に関しては一切触れるところがありません。 (続く)