青龍殿から降りて、本堂の西側に回りました。境内の参拝路が本堂の周囲を一周する形になっているので、参拝者は最終的には本堂前に戻ります。そのまま山門へ向かう人も居ましたが、大部分は本堂にあがって内陣を拝んでゆくようです。青龍殿の前庭に至った時点で、私たちの前を1人と3組の参詣客が歩いていましたが、その全員が本堂にあがってゆきました。
本堂の右前に立てられた案内板です。嫁さんが真剣に読んでいる間、横で静かに待ちました。
本堂正面外廊より内陣を拝みました。中央の厨子間に本尊、その左右の脇壇上に四天王像の二像ずつが祀られています。
本尊の十一面観音菩薩立像です。像高は252.2センチ、八等身のスマートな体躯に八世紀天平時代の優美な作風がうかがえます。実際に八世紀の作とみられ、嘉祥元年(848)の安祥寺創建よりもずっと前に造立されていることになりますが、いまこの像がなぜ安祥寺に在るのかは分かっていません。
現地の山科においては、八世紀以前に創建されたという山階寺の事が知られます。いまの奈良の興福寺の前身寺院にあたり、いまは廃絶して遺跡すら定かでなく伝承地しかありませんが、その伝承地はかつての安祥寺の下寺の境内地の西側に近接しています。その山階寺の旧仏ではないかとする説が出ていますが、確証はありません。
ただ、山科区域には他にも七、八世紀代の古代寺院が幾つかあったようで、一部は遺跡が見つかって確定されているようです。そうした寺の旧仏である可能性も考えられます。
八世紀の観音菩薩立像の典型的な作風がこの像にもよく示されています。表情は唐彫刻からの影響も残してやや異国風の眼差しが注目されます。奈良県に長く住んで奈良の天平彫刻の数々に親しんできた私にとっては、見慣れた、どこか懐かしささえ感じられる表情です。ああいう美麗さはやっぱり天平時代独特だな、と改めて思いました。
嫁さんが「八世紀の仏像って、京都市内には少ないんじゃないのですか?」と素朴な疑問を小声で囁きました。その通りで、京都府には幾つかありますが、京都市内にはまず無かったと思います。つまりはこの安祥寺十一面観音像のみ、となります。
京都市内において七、八世紀代に建てられた寺院は幾つかあったようですが、いまも現存しているのは太秦の広隆寺のみです。その本尊弥勒菩薩半跏像はあまりにも有名ですが、七世紀代の仏像としては唯一の存在です。それに続く八世紀代の唯一の仏像がここ安祥寺の十一面観音像ですから、その貴重さが分かるでしょう。国の重要文化財に指定されていますが、貴重さにおいては国宝の広隆寺弥勒菩薩半跏像と同格なのですから、旧多宝塔の五智如来像とともに国宝にすべきだろう、と思います。
そんな凄い仏像が、世に出たのは確か平成17年(2005)頃のことでした。京都大学による安祥寺への研究調査が契機だったかと記憶しています。それまで安祥寺は非公開寺院で、今でも特別公開は限定的にしか行っていないので、その安置仏像の実態も近年まで殆ど知られていなかったようです。本尊十一面観音像が一躍有名になったのも、平成22年(2010)に奈良国立博物館で開催された特別展「大遣唐使展」に初出展されてからの事でした。
私は当時奈良に住んでいて、「大遣唐使展」は当然観に行きましたから、昭和63年に初めて訪ねた安祥寺の本尊像が出ているのに驚きました。同時に、八世紀代の優美な乾漆併用の木彫像なんだから、同じ八世紀仏像の2トップたる薬師寺聖観音菩薩像(日本)と神龍二年観音菩薩立像(唐)のビッグ2が初めて顔合わせを実現した稀有の特別展に出てきてもおかしくないな、と納得したものでした。
ともあれ、個人的には大学時代からの様々な思い出がある仏像です。久しぶりに拝めて良かった、と思います。
最後に、庫裏の横の鐘楼へ行きました。嫁さんが「この寺の鐘もなんか曰くつきらしいですよ」と興味津々だったからでした。
上図の案内説明板によれば、この鐘は摂津国渡辺郷(現在の大阪市中央区久太郎町4丁目渡辺)にあった安曇寺(あずみでら)のもので、嘉元四年(1306)の鋳造銘があります。豊臣秀吉の朝鮮出兵にあたって五畿内から陣鐘として出された鐘の1つであったものが、何かの間違いで安祥寺に返納されたと伝わっています。
何かの間違い、とありますが、安曇寺と安祥寺は一字違いで、曇と祥の崩し字は形が良く似ていますから、それで間違われたのだろうと思います。
ですが、安祥寺側も間違って返納されたこの鐘を、安曇寺へ返すこともせずにそのままに置いてしまっているのもおかしなものです。安曇寺が江戸期には既に廃絶していたため、返しようがなかったのかもしれません。
ちなみに、安曇寺は古代豪族安曇氏の氏寺として七世紀には建てられたとの伝承があり、位置も遺跡もまだ確認されていませんが、戦国期には摂津国渡辺に在ったことが知られています。古代には安曇氏の本拠地であった渡辺の地から動いていなかったものと思われますが、現在は絶えてしまって幻となっています。
なので、この鐘は、いまに残る安積寺のたった一つの「記憶」であるわけです。
以上、2022年秋の安祥寺の特別公開見学の顛末でした。 (了)