2024年4月8日の夕方、水戸の友人U氏から電話がありました。
「右京大夫、京の桜は咲き始めた?」
「ああ」
「では、今度の土日に一泊二日で行く」
「合流場所は?」
「地下鉄東山駅の出入口に8時」
「承知」
かくして4月13日の朝、いつもの祇園四条のカプセルホテルに前泊してバスで東山三条までやってきたU氏と、上図の地下鉄東山駅前で合流しました。2月に続いて三度目の旧伏見城移築建築巡りがスタートしました。
東山駅前から三条通を少し東へ進み、U氏が「ちょっと路地裏歩きがしたいね」というので上図の五軒町の路地道を歩いてやや遠回りし、神宮道へと向かいました。
神宮道に出て右折し、ゆるやかな登り坂をたどっていくと、左手に上図の青蓮院門跡の表門が見えました。
「あの泰然とした、雅な佇まいはいつ見ても変わらんなあ、かつては内紛とかゴタゴタだらけだったのが嘘みたいだなあ」
「水戸の、その内紛やゴタゴタってのは、左翼や総評(日本労働組合総評議会)のスト騒動や中核派の放火事件のことかね?」
「それもあるが、一番大きかったのは先の門主が世襲制を入れようとして天台宗と揉めた件だな。天台宗は住職の世襲を認めてなかったからな・・・。次いで多数の文化財が青蓮院の所有から離れてる件があるが、これも先の門主のときだったんで、どういう経緯があったのかと国会でも問題になってたよ」
「ふーん、そんなことがあったんか、先の門主ってヤバイ人物だったのかね?」
「なんだ、星野が知らんのは意外だな・・・、ヤバかったのは間違いないが、旧皇族だぞ。香淳皇后の弟だからな」
「えっ」
「だから、いまの上皇陛下は甥、今上陛下は大甥にあたられる」
「・・・香淳皇后の弟、ていうと、久邇宮(くにのみや)家やな、それが青蓮院の先の門主やったのか・・・」
「そう、久邇宮家の三男で、東伏見宮家に入って、戦後に青蓮院門主になってる。東伏見慈洽(ひがしふしみじごう)を名乗ってるけれど、あれもおかしいんだよな。皇室典範じゃ皇族の養子は認めてなかったし、宮内省も認めてなかったのに、臣籍降下で華族になって改めて「東伏見」の苗字を賜ったということになってる」
「ふーん、それが世襲制を入れようとして天台宗と揉めたってのは、自分の子に青蓮院門主を継がせようとしたわけか」
「そう、現にそうなってる。旧皇族の権威に天台宗が屈服させられてな、いまの門主は息子の東伏見慈晃(ひがしふしみじこう)だし、今度はその長男が次の門主になるらしい」
「ふーん、そうやったのか、天台宗の名門青蓮院が東伏見の一族に完全に乗っ取られた感じになるわけか・・・」
「そういうことだ。伝統ある由緒正しき名刹の歴史も、住職に誰がなるかで左右されちゃうわけ。旧皇族であったとしても、天台宗の三門跡寺院の格式にふさわしい人物かどうかとなれば、また別の問題だよな・・・」
話しながら歩いているうちに、知恩院の裏門にあたる上図の黒門の前を通りました。
「この門を細かく見ていたのも、もう二年前になったか」(当時のレポートはこちら)
「月日の経つのは早いもんやな。僕も京都に凱旋移住してからもう五年が過ぎた」
「そうか。で、あの門は、豊臣秀吉期の木幡山伏見城の城下町の門の建築遺構、という可能性で考えていいんだよな」
「ああ」
「それにしても不思議だよな。いま現存してる旧伏見城の建物ってさ、殆どが徳川家に関連する寺社に残ってるんだよな。徳川家の伏見城の建物ならともかく、豊臣期の建物なんて破壊しちゃいそうなもんなのにな」
「そうやな。徳川政権が豊臣政権の次に国政を預かる事を明白にならしめる意味で、前政権の遺品をまとめて管理するという意味合いもあったかもしれん。全てを破壊していなかったところをみると、良い建物は良いと認めて後世に残そうととする配慮はあったのかもな」
「なるほど、そういうことかもしれんな・・・」
やがて上図の知恩院の三門の前を過ぎました。
「やっぱり京都の徳川家の菩提寺だけのことはあるねえ、建物も敷地の石垣の構えも、見る者を圧倒してくるような規模で意図的に造られてる気がするな」
「そりゃそうやろう、德川家は京都に二条城を構えてるけど、二条城は実質的には御殿とか迎賓館クラスの施設なんで、あれだけでは有事の際に拠点として使えない。だいいち、囲まれたら終わりや。やっぱり、防御戦に有利な山を抱える場所とか、堅固な要塞みたいな丘上の寺院でないと軍事作戦が有利に展開出来ないからな」
「うん、そういうことだな」
知恩院の南門をくぐって、円山公園に入りました。
円山公園の奥の高所に立つ、上図の坂本竜馬および中岡慎太郎の銅像。
「この歴史人物の片方、坂本竜馬はさ、最近の研究によって色々と史観が変わりつつあるようだな。司馬遼太郎の小説のイメージが定着しすぎて超有名人になってしまったため、史実とはかけ離れてしまってたのが是正されつつあるのかも」
「それはあるな。でもこの二人を揃えて幕末維新の二偉人とするのは、そんなに間違ってないと思うな」
「それ、筑前福岡藩の早川養敬の証言だったかな、坂本龍馬は青写真が秀逸だったけれど、中岡慎太郎を語らずしてそれは成り立たず、とかな」
「うん、そう。薩長和解の斡旋かて竜馬の功績みたいに言われてるけど、あれも慎太郎の内助の功というか、水面下での働きがすごく影響してるはずやね」
「それは竜馬本人も認めてるもんな。ええと、手紙だったっけ、確か「「我中岡と事を謀る往々論旨相協はざるを憂う。然れども之と謀らざれば、また他に謀るべきものなし」って書いてるよな」
「ええコンビやったと思うで。当時の人々もそう捉えていたやろうし」
「だから、敵対勢力から見たら最大のターゲットになるわけだな。二人揃ってるところを襲撃して暗殺してるのは、ちょっと話がうますぎるよなあ」
「当時もそういうふうに言われてたみたいやけど、よくピンポイントで暗殺出来たもんやな・・・」
「そりゃ実行犯がそれだけ優秀だったわけだろ。諸説あるけど、京都見廻組の可能性が高いというのも納得出来るな」
「新撰組は関与してなかったんかね?」
「どうだろうなあ、あっちは所詮私兵の集まりだ。京都見廻組は幕府の一種の警察組織だから情報収集能力も組織のパワーで綿密に抜かりなくやる筈。攘夷運動の2トップを一挙にやる、ってのも組織の合理的思考からくる作戦だったんだろうな」
「なるほど・・・」
色々と話しているうちに、最初の目的地である長楽寺の参道に着きました。前回の京都巡りにてU氏が「次に行こうぜ」とリクエストしていた時宗の古刹です。
参道入り口の右脇に立つ案内板です。この種の案内板の前でU氏は必ず立ち止まり、真剣な目つきで三度読みます。内容的に正しいかどうかの判断はいったん横に置いて、まずは書かれてある情報を仕入れておく、というスタンスです。
それから参道を登って上図の山門の前に至り、二人で並んで一礼しました。その後にU氏が門の右側の立札を指差しましたので、つられて視線を向けました。
U氏が指差した立札です。
「お、寺の後山に水戸藩士の墓地がある、と話していたんはこれのことか・・・」
「さよう、われらが水戸藩28万4千石の、赫奕たる歴々の勇士が静かに眠る清浄の聖地である」
わざと低い声音で重々しく答えるU氏でした。
それから山門をくぐりました。
この時期、春季特別展が「建礼門院秘宝展」と題して開かれていました。そのためか、拝観料が追加されて千円になっていました。
「なんと、千円も取るとはこれ如何に。水戸藩28万4千石の光輝なる尊王精神を何と心得ておるのか・・・」
今度は声高に周囲に聞こえるように誰も居ない境内に言い、憤慨するU氏でした。 (続く)