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北山鹿苑寺3 舎利殿と方丈

2022年05月16日 | 洛中洛外聖地巡礼記

 北山鹿苑寺の象徴ともいえる金閣、正式には舎利殿と呼ばれる三層の建物です。古代仏教伽藍では塔婆に相当する施設ですが、足利義満の独自の芸術的感覚にもとづくデザインによってそれまでは無かった建築構造と外観とにまとめられ、室町期のみならず、日本建築史上に光輝を放つ建造物としていまなお人気を集めています。
 北山殿の創建以来当地に遺された唯一の建築でしたが、昭和25年(1950)に寺僧の放火で焼失し、その5年後にほぼ元通りに再建されたのが、現在の金閣です。

 ほぼ元通りに、というのは、完全な再現ではないからです。焼失前の金閣は明治期に修理が行われて建物の精密な実測図が作成されたため、創建以来の建物の様子が細部まで明確に知られます。現在の昭和30年再建の金閣の図面と比較すると、焼失前の創建以来の金閣では一層目の北側に戸口があったこと、二層目の東西壁に窓があったこと、等が分かります。これらを再建にあたって変更した理由は分かりませんが、一層目の北側の戸口というのは、創建時に金閣の北側に隣接した天鏡閣との関連に鑑みれば、史料上て「複道」と記された天鏡閣との連絡用空中廊下の接点であった可能性が考えられます。それを昭和30年の再建にて無くして壁に変更していますが、これは失敗であったかもしれません。

 

 さらに致命的な失敗ではないかと思うのが、二層目まで金箔を押している点です。焼失前の金閣は三層目のみに金箔が残されていて、二層目は黒漆塗りであったことが古写真や焼失時の残存材検証などから明らかになっています。つまり、現在の二層目からの金箔押しは、昭和30年からの外観であって、室町期創建以来の姿とは異なります。なぜ昭和の再建にあたって、本来はなかった二層目の金箔を施したのか、と不思議に思います。何らかの学術的根拠があったのかもしれませんが、いまだにその詳細を知り得ないままです。

 また、建物の構造そのものも創建時と異なるとの指摘があります。構造部材検証からの所見による推定案では、もとは三層目が西側にあって二層目までの梁の上に建てられ、つまりは一層目からまっすぐに上へ繋がる層塔状の楼閣建築になっていた、とされています。
 つまり、かつて北側の西寄りの位置にあった天鏡閣から見て、池庭の中島に面する三層の楼閣に見えるように建てられていた、という推定がなされています。建築構造的には宇治平等院鳳凰堂翼楼端の宝形楼のような感じで、かつて天鏡閣と繋いだ連絡用空中廊下のほうも、平等院鳳凰堂の翼楼に似た姿であったのだろうと個人的には思います。

 さらに、日本の数多くの仏教建築のなかで、頂上に鳳凰を戴くのは、平等院鳳凰堂と金閣、銀閣の3棟しかないという事実が興味深く思われます。銀閣のは足利義政による先祖の金閣の模倣の結果ですから問題はありませんが、金閣のモデルの一つとなったといわれる西芳寺瑠璃殿には鳳凰は無かったらしいので、金閣において模倣すべき前例は平等院鳳凰堂しか有り得ません。前述の建築構造の類似と、鳳凰という共通要素との2点は、果たして偶然の一致なのでしょうか。

 

 足利義満が北山殿の造営前の約二十年間に西芳寺での参禅や誌会に没頭すると同時に、池庭の芸術性に注目して当時有名であった二条殿の池庭をしばしば訪れ、二条殿のあるじ太政大臣二条良基に和歌や連歌とともに作庭をも学んでいたことはよく知られています。既に義満の室町御所には立派な池庭が造られていましたが、北山殿の広大な池庭を造ろうと夢見ていたあたり、義満自身が室町御所の池庭に満足していなかったことが伺えます。

 しかも義満は、幕府支配圏と敵対勢力範囲とにかかわらず各地へ出かけ、富士山や厳島や天橋立などの風景を積極的に見て回っています。伊勢や越前へ海岸を見に行き、高野山や粉河寺にも庭園を見に立ち寄っていますから、彼の作庭における情熱が並々ならぬものであったことが分かります。
 当時、室町幕府は義満の時に中国との国交を回復して勘合貿易を展開しており、宋や明の山水画が大量に輸入されて日本美術の思想に深い影響を与え始めていました。山水画は自然の景観を絵画化した図ですが、これによって池庭の絵画化による芸術的潮流が見いだされ、または中国風山水の池庭の流行化による作庭思想の変化が表れてきました。義満が作庭に関心を持ち、各地の風景や池庭を熱心に見て回っていたのも、そうした時勢と無関係ではなかったでしょう。

 

 なので、その研鑚の結晶ともいえる北山殿の池庭、つまり現在の鹿苑寺庭園が、従来の平安風浄土系庭園の要素と訣別し、それまでの洲浜式護岸を否定して中国風山水のイメージも含まれた石組護岸を選択して庭園の輪郭線となしているのも当然の帰結といえるでしょう。
 おそらく、北山殿が造営される前にここにあった西園寺家北山第の庭園は、藤原氏一門の重鎮であった西園寺公経の趣向を反映した伝統的な浄土系の景観を持っていたとされ、いまも北上に残る安民沢の池がその名残をとどめていますが、足利義満としては、室町幕府の威信をもかけた新たな様式の庭園を出現せしめて、飛鳥時代以来の作庭の歴史に新たなる名声を刻みたかったのに違いありません。

 舎利殿の金閣は、そうした新たな芸術的境地にもとづく新発想の池庭のランドマークとして構想された建築ですから、室町幕府としては、それまでの時代とこれからの時代とを明確に指示して世間に足利家の治世とはかくあるべし、とメッセージを示す広告塔の役目も担わせることになるのは必然です。一層目を寝殿造としてこれに平安様式の王朝文化をイメージさせ、そのうえに武家造の二層目を載せて足利家の武家文化を上にして「王朝よりも武門が上」「武門の世と成れり」を見える化しています。これらによって、建築様式的にも平安から室町への発展を表現し、さらに三層目には禅宗様の仏殿建築として、日本の宗教の最高格が足利家以下武家の信仰する禅宗であることを明示し、今後の日本の仏教は禅宗を第一とする、というメッセージを発信しているわけです。

 こういった建築を中心に据えてデザインされる当時の日本で最大級の規模の池庭が、ただの伝統的庭園におさまるというのは絶対に有り得ませんでした。南北朝の争乱も鎮め、中国との国交も回復してようやく真の平和を国内外にもたらして国土の安寧を実現させた室町幕府足利家の誇りと威信にかけて、新たな時代の到来を明確に発信すべき新機軸、新思想による庭園でなけれはならなかったのです。そのことを、足利義満はよく分かっていたのに違いありません。だから北山殿造営の二十年も前から、作庭について研究し各地の風景を訪ねて日本の自然美を学んでいたのでしょう。

 だから、足利義満という人は、優れた武将で政治家であると同時に、大変な文化的教養人でもあったのだな、と実感出来ます。私が中世戦国期の歴史に関心をもつ理由の一つとして、足利義満の存在と事績がかなりの比重を占めているのは間違いありません。

 

 鏡湖池と金閣の眺望をしばし眺めた後、東に視線を転じて上図の方丈のエリアを庭木越しに望みました。上図右奥には、拝観受付を通る前に観察した鹿苑寺の大玄関の唐門が見えました。唐門からの玄関廊が土間廊のかたちで方丈の東袖にとりついています。
 方丈の南には前庭が白砂利を掃き揃えた石庭の姿に整えられます。一見してごく普通の構えに見えますが、すぐ西側には現在でも国内屈指の規模と景観を誇る鏡湖地が石庭以上の豊かな自然美に包まれて広がっているので、個人的には相当の違和感を覚えてしまいます。なぜいまの鹿苑寺方丈は、壮大な鏡湖池に面することもなく、借景として生かすこともなく、このある意味貧弱かつ地味な石庭のみをわざわざ前にしつらえているのでしょうか。

 

 方丈は、鹿苑寺第四世文雅慶彦(ぶんがけいげん)の在職期の延宝六年(1678)の建立であり、後水尾天皇より「三百金」を賜っての再興事業によるものです。建築単体でみますと、建物の簡素化が進んだ江戸中期の禅院方丈の様式をよく伝えています。興味深いのは、その正面広縁からの視界が南側のみに限られていることであり、つまりは南の石庭しか見渡せません。上図でも分かるように、鏡湖池や金閣を望むことが出来る広縁西端にわざわざ板戸を設けて、鏡湖池方面を見えないようにしてあります。そうまでして鏡湖池エリアとは訣別したいのか、と思わざるを得ません。

 この一点からも、文雅慶彦の再興事業の基本方針が江戸期鹿苑寺の確立であって、室町期以来の鹿苑寺の系譜を踏襲するものではなかったことが伺えます。見ようによっては、足利家の鹿苑寺の歴史と庭園とは距離を置いているようです。おそらくは、文雅慶彦その人が西園寺氏を遠祖とする四辻氏の出と「鹿苑寺血脈録」に記されるのと無関係ではないでしょう。

 

 西園寺家の西園寺を足利義満が譲り受けて北山殿としてそれが鹿苑寺になった経緯、西園寺家および西園寺が旧地を譲り渡して他所へ退いて後は流転の歴史を経ていること、を考え合わせると、西園寺家を先祖に持つ文雅慶彦が足利氏の鹿苑寺に複雑な感情を抱いたとしても不自然ではありません。

 仮にそう受け止めてみると、江戸期に相国寺塔頭としての鹿苑寺を完全に一新すべく、後水尾天皇の援助まで仰いで方丈以下の建築群の造営に異常なまでの情熱を注いだのも、その建築群を室町期以来の庭園とは一線を画した配置にしたのも、なんとなく分かるような気がします。文雅慶彦にとって鹿苑寺の再興事業とは、遠祖西園寺家の西園寺の再興というのに等しかったのであろう、という指摘がなされていますが、当を得ているかもしれません。

 

 逆に言えば、江戸期の鹿苑寺再興事業においても、室町期以来の庭園にはあまり手が付けられていなかったことになります。結果的にみると現在に北山殿造営当時の池庭の大部分が残されて人気の観光地になっていますから、これで良かったのかもしれません。

 

 ただ、池は当初はもっと東側にも広がっていたことが発掘調査の成果から判明しています。その残欠のような、上図の細長い水流は、北山殿の池の東限に近いラインを通っているらしく、その東にはいまの方丈以下の鹿苑寺建築群が並びます。北山殿の時期には懺法堂、北御所紫宸殿、公卿の間といった建築群があったらしい範囲ですが、発掘調査の成果においてもあまり目立った確証は得られていません。

 

 なので、方丈の北側に渡廊下を経て隣接する上図の大書院の建物が、江戸期には「小方丈」と呼ばれて当時は「拱北楼」の額を掲げていたというのが、どうもよく分かりません。「拱北楼」とは「金閣寺誌」に挙げられる「金閣寺十勝」の一つで、現在は北東の夕佳亭の奥の建物の名称になっていますが、「鹿苑寺由緒記」によれば本来は足利義満の「平日御遊之亭」の名称であったといいます。
 つまり、現在の大書院の位置に、北山殿の足利義満の平時の居間空間の建物があって「拱北楼」と呼ばれていたものと解釈出来ます。

 そうなると、江戸期再興期の建築群の一部の大書院部分は、少なくとも北山殿の建築の旧地に建てられて「拱北楼」の由緒を受け継いで額を掲げていたことになります。それも再興事業にあたった文雅慶彦の基本構想のなかにあったことだったのでしょうか。  (続く)

 


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