実は一週間前、事故に遭いました。
高速道路上で追突されたのでした。
幸い骨折などの大きな怪我もなく、首や背中に多少の違和感を覚える程度。
車椅子も全くダメージが無かったので良かった。
でも車は大破。
車が身を犠牲にして僕を守ってくれたのでした。
すごく気に入っていた車だったので、ありがとうという気持ち以上に、悔しい気持ちが大きくはあります。
事故現場では身体は全く大丈夫と思っていたけれど、「後から来るよ」と周囲からさんざん注意され、すると案の定、普段は感じない張りが出るように。
トレーナーの先生からも、「ほら、普段こんなところ張らないでしょ、これが事故の影響なんです」と言われる。
ちょっと甘く見ていた。
僕は脊髄損傷。
胸から下の感覚が無いので、腹筋背筋も機能しない。
だから、首、肩、背中、腕などには普通とは違った負荷がかかるし、スポーツ活動を行う上でそれは尚のこととなる。
だからこそ、自分が思う以上にダメージを受けていたのかもしれない。
ちなみに、下半身は感覚が無いので、骨折とかしていても分からない。
痛みだって無いから。
でも大丈夫だった。
特に左ひざは足がセンターコンソールに当たっただろうから心配だったけど、青アザすら出来ていないし、正常にケイセイ(意思とは関係なく入る力)がいつも通りに生じていた。
あの衝撃に対して無事だったのは、やはり車の秀逸さだと思う。
別に営業しているわけではない(笑)
だけど、車を含め「守られた!」とつくづく思ったし、そういう点で幸せを感じた。
でも、本当のダメージは身体ではない。
一番大きなダメージ、それは車を失ったこと。
日常の足を失うということが、車椅子で生活をする僕にとってはとてつもなく大きなダメージとなる。
仮にもし僕が競技用の車椅子を車で持ち歩いて活動しているということになれば、普段の練習もままならなくなってしまう。
幸い僕は日常用を競技用と兼用しているし、プレーの際はクッションを変えて使っているだけなので、そういう点ではよかった。
でも、練習へ向かう際、日常の移動がその競技用クッションでということになりがち。
実はこれが意外と大変で、歩道や道路を長い距離移動するのは身体への負荷が大きい。
さらには、僕でも運転できる手動装置(左手でアクセルとブレーキを操作)の付いたレンタカーをお借りしたけれど、そもそも車が違えば、毎日の乗り移りも車椅子の収納も勝手が大きく異なるので、それもまた心だけでなく地味に身体への負荷ともなる。
実は今、僕はそういう状況にある。
愛知での充実した濃い練習を終えた帰り道の出来事で、調子も上がってきていたこのタイミングでのこのアクシデントはとても残念に思えた。
そして、今国内では新型コロナウィルスの影響で、イベントだけでなくスポーツの試合も注意が相次いでいる。
実はパラ卓球にもその余波は直撃していて、2月23日に予定されていた埼玉での試合が中止となった。
さらに、3月8日に予定されていた地元での一般(健常者)のオープン戦(団体戦)に出場予定だったのが、これも中止となった。
今の自分をこの2大会で確認しようと意気込んでいたので、それもすごく残念なことだった。
残念が重なっている。
じゃぁ、自分は不運なのか?不幸なのか?
あはははは(笑)
そんなことは微塵も思っていない(笑)
逆に、「こりゃぁなんか良いことあるぞ!」
と思えて仕方ないのだ(笑)
僕を応援してくれている友人は、試合が中止になったことを「よかったね」と言ってくれる。
なぜなら、「身体は決して万全ではないし、移動だっていつもと違うからストレスだって思う以上に生じるだろうし、そんな状況で試合やらなくて良かったじゃないか」という。
まさにその通り。
自分一人ではそういう思考や判断は出来なかったかもしれない。
それに気づけた時点で、そういう仲間の存在をあらためて知れたことで、やっぱり良いことだったのだ。
また、思いがけず日常とは異なる時間や移動手段を設けられたことで、様々なことを学べたし、より多くの情報を得ることも出来た。
これもまた良いこと。
ただ、このウィルスの状況は深刻で、試合云々だけでなく、自身を含め日常生活の範囲でさらなる大きな変化がいつ生じてもおかしくはないとも思うので、自分のこととしても、日本人としても注意していなければならない。
アクシデントは何の前触れもなく突然降りかかる。
「想定外」
という言葉はもはや日常の想定内のものとなった今、それにどう対処するか、どう生き抜くか、そこに人としての真価が問われるように思う。
まずは、やるべきことをきちんとやっていよう。
そして、万が一に耐えうるメンタルとフィジカルを磨き続けよう。
そして、極力人に迷惑をかけずに済むように備えていよう。
そうした心構えがあるかどうかで、その先の開く扉は異なってくるものだと思うから。
まずは、この混乱の一日も早い終わりを切に願うとともに、これ以上の犠牲者の出ないことを切に願う。
高速道路上で追突されたのでした。
幸い骨折などの大きな怪我もなく、首や背中に多少の違和感を覚える程度。
車椅子も全くダメージが無かったので良かった。
でも車は大破。
車が身を犠牲にして僕を守ってくれたのでした。
すごく気に入っていた車だったので、ありがとうという気持ち以上に、悔しい気持ちが大きくはあります。
事故現場では身体は全く大丈夫と思っていたけれど、「後から来るよ」と周囲からさんざん注意され、すると案の定、普段は感じない張りが出るように。
トレーナーの先生からも、「ほら、普段こんなところ張らないでしょ、これが事故の影響なんです」と言われる。
ちょっと甘く見ていた。
僕は脊髄損傷。
胸から下の感覚が無いので、腹筋背筋も機能しない。
だから、首、肩、背中、腕などには普通とは違った負荷がかかるし、スポーツ活動を行う上でそれは尚のこととなる。
だからこそ、自分が思う以上にダメージを受けていたのかもしれない。
ちなみに、下半身は感覚が無いので、骨折とかしていても分からない。
痛みだって無いから。
でも大丈夫だった。
特に左ひざは足がセンターコンソールに当たっただろうから心配だったけど、青アザすら出来ていないし、正常にケイセイ(意思とは関係なく入る力)がいつも通りに生じていた。
あの衝撃に対して無事だったのは、やはり車の秀逸さだと思う。
別に営業しているわけではない(笑)
だけど、車を含め「守られた!」とつくづく思ったし、そういう点で幸せを感じた。
でも、本当のダメージは身体ではない。
一番大きなダメージ、それは車を失ったこと。
日常の足を失うということが、車椅子で生活をする僕にとってはとてつもなく大きなダメージとなる。
仮にもし僕が競技用の車椅子を車で持ち歩いて活動しているということになれば、普段の練習もままならなくなってしまう。
幸い僕は日常用を競技用と兼用しているし、プレーの際はクッションを変えて使っているだけなので、そういう点ではよかった。
でも、練習へ向かう際、日常の移動がその競技用クッションでということになりがち。
実はこれが意外と大変で、歩道や道路を長い距離移動するのは身体への負荷が大きい。
さらには、僕でも運転できる手動装置(左手でアクセルとブレーキを操作)の付いたレンタカーをお借りしたけれど、そもそも車が違えば、毎日の乗り移りも車椅子の収納も勝手が大きく異なるので、それもまた心だけでなく地味に身体への負荷ともなる。
実は今、僕はそういう状況にある。
愛知での充実した濃い練習を終えた帰り道の出来事で、調子も上がってきていたこのタイミングでのこのアクシデントはとても残念に思えた。
そして、今国内では新型コロナウィルスの影響で、イベントだけでなくスポーツの試合も注意が相次いでいる。
実はパラ卓球にもその余波は直撃していて、2月23日に予定されていた埼玉での試合が中止となった。
さらに、3月8日に予定されていた地元での一般(健常者)のオープン戦(団体戦)に出場予定だったのが、これも中止となった。
今の自分をこの2大会で確認しようと意気込んでいたので、それもすごく残念なことだった。
残念が重なっている。
じゃぁ、自分は不運なのか?不幸なのか?
あはははは(笑)
そんなことは微塵も思っていない(笑)
逆に、「こりゃぁなんか良いことあるぞ!」
と思えて仕方ないのだ(笑)
僕を応援してくれている友人は、試合が中止になったことを「よかったね」と言ってくれる。
なぜなら、「身体は決して万全ではないし、移動だっていつもと違うからストレスだって思う以上に生じるだろうし、そんな状況で試合やらなくて良かったじゃないか」という。
まさにその通り。
自分一人ではそういう思考や判断は出来なかったかもしれない。
それに気づけた時点で、そういう仲間の存在をあらためて知れたことで、やっぱり良いことだったのだ。
また、思いがけず日常とは異なる時間や移動手段を設けられたことで、様々なことを学べたし、より多くの情報を得ることも出来た。
これもまた良いこと。
ただ、このウィルスの状況は深刻で、試合云々だけでなく、自身を含め日常生活の範囲でさらなる大きな変化がいつ生じてもおかしくはないとも思うので、自分のこととしても、日本人としても注意していなければならない。
アクシデントは何の前触れもなく突然降りかかる。
「想定外」
という言葉はもはや日常の想定内のものとなった今、それにどう対処するか、どう生き抜くか、そこに人としての真価が問われるように思う。
まずは、やるべきことをきちんとやっていよう。
そして、万が一に耐えうるメンタルとフィジカルを磨き続けよう。
そして、極力人に迷惑をかけずに済むように備えていよう。
そうした心構えがあるかどうかで、その先の開く扉は異なってくるものだと思うから。
まずは、この混乱の一日も早い終わりを切に願うとともに、これ以上の犠牲者の出ないことを切に願う。