あらためて思う。
常々思うことだけど。
僕は学生時代のアルバイトからパラ卓球を始めるまではずっと飲食業で現場に立っていたし、それ以降もしばらくの間は飲食業に関わっていた。
それもホテルやフランス料理店という非日常空間をステージとした飲食。
だから、その根幹には「贅沢」というキーワードがあったし、常々それを意識していた。
「贅沢=心の栄養」みたいなところがあるのだけれど、だから逆に、直接的な体への栄養、食材の栄養価やカロリーには無頓着で、良いものを美味しく食べる、食べたい時に食べたいものを食べる、それこそが「幸せ」だとして食を捉えていた。
ついでを言えば、その結果運動量の少ない車椅子になってから体重は激増。
今よりも30kg近く太った(笑)
そしてパラ卓球に出会い、まずダイエットに取り組み、増えた分の約30kgの減量に成功。
同時に身体づくりも意識的に行うようになり、今に至っている。
その時、僕の中で大きく変化したのは食。
それは具体的な食生活というよりもむしろ、自分の中での食への意識だった。
贅沢を否定するものではない。
それは大切だと今でも思っているし、心の栄養としてむしろ必要なことだとも思っている。
だからその演出やサービスにおいては依然高い意識を持っているつもりだし、そうすることの楽しさや喜びは今も変わらず持っている。
飲食業で僕はサービスに従事していたので、その部分には人並み以上の意識があると自負しているし、実際に様々なシーンでの業務を経験している。
そもそも、味覚というのは感情で変化すると思っている。
僕がよく例えに使うのは、四畳半の部屋で一人ぼっちで食べる世界最高級のオマール海老(最高級のフォアグラとトリュフでもいい)と、憧れの芸能人と一緒に公園で食べるおにぎり、どっちが美味しい?と。
味覚も食べたいという欲求も、感情や心境によって変化するものだし、外的要因で「変化を加える」ことも出来る。だから、サービスや演出が重要だと僕は学んだ。
そんな僕が、心の栄養よりもストレートに身体の栄養を意識するようになった。
その変化には自分でも生活の中で感心することが多々ある。
そして、それを行動に移した時、飲食の知識や経験が思っている以上にプラスに働いていることを嬉しく思う。
人生に無駄はないのだな、きっと。
以前、アスリートフードマイスターの授業にゲストとして参加したことがある。
その時、自分でも時々作るラタトゥイユについて質問をさせていただいたのだけれど、「アスリートからラタトゥイユなんて言葉が出るなんて思わなかった」と言われたのが印象的だった。
僕に言わせれば、ラタトゥイユなんてのはむしろ基本中の基本みたいな存在で、それを料理にどう派生させていくか、その定義は?その調理法は?その文化的背景は?なんてレベルで料理人仲間ともいつも話をしていたから、単語ひとつをそう言われたことで、「僕が今いるステージは全然違った世界なんだ」と実感した記憶がある。
他にも、アドバイザーへチーズについて質問した際や調理を教わる際にも同様の印象を受けたことが度々あった。
でも、僕が持つ知識は「いかに美味しく食べるか」であって、「いかに効率よく栄養を摂取するか」ではない。
だからこそ、必要な変化の大きさを痛感したし、逆に「食」という世界に深く関わっていた経験が大きな財産となったのは確かなことで、新しい世界へ挑むにあたってのハードルは実に低く、いやむしろ無く、新たな扉を開きその先に見える世界には楽しみ、喜びしかないと感じたことは間違いない。
そして、専門書を含め色々な本を読むなどしていても情報の消化吸収にあたってはことのほかスムーズで、それ自体を大いに楽しめていたりもする。
何よりも、「美味しく作る」ことだけでなく「身体のために」を考えながら食材を選び調理をする、その楽しさを得たことが人生のプラスになったとも思っている。
逆にそれを得ていなければ、今の自分はないだろうし、これから先の自分も大きく道を違えていただろうと思う。
これもまたスポーツの恩恵。
あらためて思う、食は大事。
人は食べたもので出来る。
身体は食べたもので作られていく。
でも、腸内環境なども含めそれらは未だ全てが解明されているわけではない。
むしろ、分かっている範囲はまだまだごく狭いものだとも思っている。
そんな中で、何を食べれば良いのかだけではなく、やはり心の栄養も大切だとも思う。
どこで、誰と、どのように、そして何を食べるか、それも重要。
それが「心の栄養」に直結するから。
「食べることは体の栄養、それを『楽しく』食べることで心の栄養も摂取することができる」が、若い頃に学んだこと。
30代まではそれを信念として食と向き合ってきた。
40代からはそこにさらに「何をどう食べるか」が加わった。
自宅には様々な専門書を多く持っているけど、最近そこに加わるのはスポーツ栄養学的な書物。
それを完璧にこなしていくことはかなり難しい。
物理的にも専門家レベルの知識と技術を要するし、時間的金銭的コストも大きくなる。
また、様々な点で制約を設けることにもなるから、ある意味食における「贅沢」とは真逆の方向へ向いていることになるし、それが心の栄養に繋がるかどうかは個人差もあるだろうけど難しい部分も少なくない。
そのバランスをどう取るか?
それこそがアスリート・マインドの問われるところなのかもしれない。
そんな自分を楽しめている。
今これを書いているのも料理の合間の時間だったりする。
キッチンとつながっているリビングはブロッコリーの香りで充満している(笑)
でもこの後はカレーの香りになる予定。
オフの日は料理を大量に作り、あるいは仕込み、ストックして、練習から帰宅したら時間をかけず直ぐに食べられる環境作りをしている。
その時間もまた楽しい。
面倒なのは調理後の片付けか(笑)
そうした段取りを組んで調理することが自然と出来るのも、多くの優れた料理人の仕事を目の当たりにし、彼らと現場を共にしてきたからだと感謝している。
食は文化だ。
グローバル化ということで、その文化は横に大きく広がり、交わり、便利になりつつも、文化を時間という縦軸で考えた場合には、変化とともに失われつつあるものもあるし、核家族化が進むことで食卓という環境の変化から「伝統」や「習慣」という文化の伝達が成されなくなってきていると一日本人としての危機感を覚えてもいる。
大手メーカーのTVCMを見ていても「これが許されるのか」と驚くこともしばしあるし、今は丼ものが様々見られるけれど、江戸時代の武士が見たらそれをどう思うかとも思ったりもする。
「食」は見る角度を変えればその形は大きく変わる。まさに千変万化。
だからこそ、それとどう付き合うか、どう向き合うか、それが大切なのだと思う。
それ次第で、自分自身も大きく変わるし、その先の人生すらも大きく向きを変えるものだろう。
なんて偉そうに言うけど、僕は何か特別なこだわりがあるわけでもなければ、別にオーガニック信者でもなんでもない(笑)
人類の躍進には農薬の存在があったからこそだとも思っているから別段農薬を全否定するつもりもないし、菜食主義でもなんでもなく、動物にも野菜にも同じ「命」があると思っているから動物も植物も同じ「生物」として捉え、それを自分の生命維持のために「いただきます」と思っている。
僕はそれが古代日本人のアニミズム思想から継承されている文化であり、アイデンティティだからこそ大切にしたいとも思っている。
だから、ジャンクフードもお菓子も、ラーメンだって粉物だってなんでも、否定することはしないし、そうしたものを食べたいと思うことは僕も多々ある(笑)
まぁ添加物には多少の恐れを抱いてはいるけど。
とにかく、食は大切。
さぁ、カレーを作ろう。
今回は豚ひき肉と玉ねぎでカレーソースを作るつもり。
玉ねぎは先ほどすでにシュエしてある。
野菜は茹で野菜をトッピングすればいい。
今回茹でたブロッコリー、茹でる際の水を硬水にしてみた。
いつもよりも甘さを強く感じるけれど、それが水の恩恵なのか野菜のクオリティなのかは不明(笑)
自己満足でいいのだな。
自分で作る料理はそれでいいとも思っている(笑)
そして、カレーは作るとしばらくそれが続くことになるとも思っている(笑)
常々思うことだけど。
僕は学生時代のアルバイトからパラ卓球を始めるまではずっと飲食業で現場に立っていたし、それ以降もしばらくの間は飲食業に関わっていた。
それもホテルやフランス料理店という非日常空間をステージとした飲食。
だから、その根幹には「贅沢」というキーワードがあったし、常々それを意識していた。
「贅沢=心の栄養」みたいなところがあるのだけれど、だから逆に、直接的な体への栄養、食材の栄養価やカロリーには無頓着で、良いものを美味しく食べる、食べたい時に食べたいものを食べる、それこそが「幸せ」だとして食を捉えていた。
ついでを言えば、その結果運動量の少ない車椅子になってから体重は激増。
今よりも30kg近く太った(笑)
そしてパラ卓球に出会い、まずダイエットに取り組み、増えた分の約30kgの減量に成功。
同時に身体づくりも意識的に行うようになり、今に至っている。
その時、僕の中で大きく変化したのは食。
それは具体的な食生活というよりもむしろ、自分の中での食への意識だった。
贅沢を否定するものではない。
それは大切だと今でも思っているし、心の栄養としてむしろ必要なことだとも思っている。
だからその演出やサービスにおいては依然高い意識を持っているつもりだし、そうすることの楽しさや喜びは今も変わらず持っている。
飲食業で僕はサービスに従事していたので、その部分には人並み以上の意識があると自負しているし、実際に様々なシーンでの業務を経験している。
そもそも、味覚というのは感情で変化すると思っている。
僕がよく例えに使うのは、四畳半の部屋で一人ぼっちで食べる世界最高級のオマール海老(最高級のフォアグラとトリュフでもいい)と、憧れの芸能人と一緒に公園で食べるおにぎり、どっちが美味しい?と。
味覚も食べたいという欲求も、感情や心境によって変化するものだし、外的要因で「変化を加える」ことも出来る。だから、サービスや演出が重要だと僕は学んだ。
そんな僕が、心の栄養よりもストレートに身体の栄養を意識するようになった。
その変化には自分でも生活の中で感心することが多々ある。
そして、それを行動に移した時、飲食の知識や経験が思っている以上にプラスに働いていることを嬉しく思う。
人生に無駄はないのだな、きっと。
以前、アスリートフードマイスターの授業にゲストとして参加したことがある。
その時、自分でも時々作るラタトゥイユについて質問をさせていただいたのだけれど、「アスリートからラタトゥイユなんて言葉が出るなんて思わなかった」と言われたのが印象的だった。
僕に言わせれば、ラタトゥイユなんてのはむしろ基本中の基本みたいな存在で、それを料理にどう派生させていくか、その定義は?その調理法は?その文化的背景は?なんてレベルで料理人仲間ともいつも話をしていたから、単語ひとつをそう言われたことで、「僕が今いるステージは全然違った世界なんだ」と実感した記憶がある。
他にも、アドバイザーへチーズについて質問した際や調理を教わる際にも同様の印象を受けたことが度々あった。
でも、僕が持つ知識は「いかに美味しく食べるか」であって、「いかに効率よく栄養を摂取するか」ではない。
だからこそ、必要な変化の大きさを痛感したし、逆に「食」という世界に深く関わっていた経験が大きな財産となったのは確かなことで、新しい世界へ挑むにあたってのハードルは実に低く、いやむしろ無く、新たな扉を開きその先に見える世界には楽しみ、喜びしかないと感じたことは間違いない。
そして、専門書を含め色々な本を読むなどしていても情報の消化吸収にあたってはことのほかスムーズで、それ自体を大いに楽しめていたりもする。
何よりも、「美味しく作る」ことだけでなく「身体のために」を考えながら食材を選び調理をする、その楽しさを得たことが人生のプラスになったとも思っている。
逆にそれを得ていなければ、今の自分はないだろうし、これから先の自分も大きく道を違えていただろうと思う。
これもまたスポーツの恩恵。
あらためて思う、食は大事。
人は食べたもので出来る。
身体は食べたもので作られていく。
でも、腸内環境なども含めそれらは未だ全てが解明されているわけではない。
むしろ、分かっている範囲はまだまだごく狭いものだとも思っている。
そんな中で、何を食べれば良いのかだけではなく、やはり心の栄養も大切だとも思う。
どこで、誰と、どのように、そして何を食べるか、それも重要。
それが「心の栄養」に直結するから。
「食べることは体の栄養、それを『楽しく』食べることで心の栄養も摂取することができる」が、若い頃に学んだこと。
30代まではそれを信念として食と向き合ってきた。
40代からはそこにさらに「何をどう食べるか」が加わった。
自宅には様々な専門書を多く持っているけど、最近そこに加わるのはスポーツ栄養学的な書物。
それを完璧にこなしていくことはかなり難しい。
物理的にも専門家レベルの知識と技術を要するし、時間的金銭的コストも大きくなる。
また、様々な点で制約を設けることにもなるから、ある意味食における「贅沢」とは真逆の方向へ向いていることになるし、それが心の栄養に繋がるかどうかは個人差もあるだろうけど難しい部分も少なくない。
そのバランスをどう取るか?
それこそがアスリート・マインドの問われるところなのかもしれない。
そんな自分を楽しめている。
今これを書いているのも料理の合間の時間だったりする。
キッチンとつながっているリビングはブロッコリーの香りで充満している(笑)
でもこの後はカレーの香りになる予定。
オフの日は料理を大量に作り、あるいは仕込み、ストックして、練習から帰宅したら時間をかけず直ぐに食べられる環境作りをしている。
その時間もまた楽しい。
面倒なのは調理後の片付けか(笑)
そうした段取りを組んで調理することが自然と出来るのも、多くの優れた料理人の仕事を目の当たりにし、彼らと現場を共にしてきたからだと感謝している。
食は文化だ。
グローバル化ということで、その文化は横に大きく広がり、交わり、便利になりつつも、文化を時間という縦軸で考えた場合には、変化とともに失われつつあるものもあるし、核家族化が進むことで食卓という環境の変化から「伝統」や「習慣」という文化の伝達が成されなくなってきていると一日本人としての危機感を覚えてもいる。
大手メーカーのTVCMを見ていても「これが許されるのか」と驚くこともしばしあるし、今は丼ものが様々見られるけれど、江戸時代の武士が見たらそれをどう思うかとも思ったりもする。
「食」は見る角度を変えればその形は大きく変わる。まさに千変万化。
だからこそ、それとどう付き合うか、どう向き合うか、それが大切なのだと思う。
それ次第で、自分自身も大きく変わるし、その先の人生すらも大きく向きを変えるものだろう。
なんて偉そうに言うけど、僕は何か特別なこだわりがあるわけでもなければ、別にオーガニック信者でもなんでもない(笑)
人類の躍進には農薬の存在があったからこそだとも思っているから別段農薬を全否定するつもりもないし、菜食主義でもなんでもなく、動物にも野菜にも同じ「命」があると思っているから動物も植物も同じ「生物」として捉え、それを自分の生命維持のために「いただきます」と思っている。
僕はそれが古代日本人のアニミズム思想から継承されている文化であり、アイデンティティだからこそ大切にしたいとも思っている。
だから、ジャンクフードもお菓子も、ラーメンだって粉物だってなんでも、否定することはしないし、そうしたものを食べたいと思うことは僕も多々ある(笑)
まぁ添加物には多少の恐れを抱いてはいるけど。
とにかく、食は大切。
さぁ、カレーを作ろう。
今回は豚ひき肉と玉ねぎでカレーソースを作るつもり。
玉ねぎは先ほどすでにシュエしてある。
野菜は茹で野菜をトッピングすればいい。
今回茹でたブロッコリー、茹でる際の水を硬水にしてみた。
いつもよりも甘さを強く感じるけれど、それが水の恩恵なのか野菜のクオリティなのかは不明(笑)
自己満足でいいのだな。
自分で作る料理はそれでいいとも思っている(笑)
そして、カレーは作るとしばらくそれが続くことになるとも思っている(笑)