国内で卓球をする人にとって「卓球王国」という雑誌は比較しようのない特別な存在で、「卓球王国に書いてあったから」「卓球王国の人が言ってたから」と、単にメディアというだけでなくまさに絶対的な存在であり、その時々のトップ選手を「神」だとすれば、卓球王国はその傍らで執事をつかさどり神の声を市民に伝える政務長官のような存在なのだ(これは個人的な意見ですw)。
その卓球王国で僕が紹介された。
紹介していただいたのだ。
これは実に誉れ高いこと。
憧れてはいたけど、まさかそれがこんな形で実現するとは夢にも思っていなかった。
晴天の霹靂とはまさにこのこと。
最初からそういう予定ではなかった。
僕は別件で取材を受けただけだった。
正確に言うと、情報を集めたいから話を聞かせて欲しいという程度の事だった。
短い時間のその取材を受けたところ、僕自身に興味を持ってくれたのか、僕の卓球に関する半生を綴るという今回の話となった。
まぁ確かに、自分で言うのもなんだけど中々レアなドラマだと思っている(笑)
だって、人生半ばでの障害の受傷で、その後の挫折感がピークに達したまさにドンピシャのそのタイミングで中学の同級生(しかも正真正銘のクラスメイト)が同じ車椅子になっていていたことを知り、さらに彼はまさかの世界トップのパラリンピアンで、いてもたってもいられず即再会、その同級生からの誰の胸にも刺さる超カッコいい一言をもらったきっかけでパラ卓球スタートという、他にはないストーリーを現実に持っているのだから、そりゃぁネタにしたくなっても不思議はない(笑)
そもそも、その同級生の彼とも笑って話したのだけれど、同じクラスから事故で(しかも同じバイクの事故で)二人も脊髄損傷のチェアウォーカーが出るなんて、多分世界中で僕たちだけだと思う。
余談ですが、バイクの事故で脊髄損傷というのは死亡事故よりも確率は低そうです。
その二人が共にパラスポーツ活動を行い、世界を舞台に活躍なんていうと、国内だけでなく海外メディアまで食いつくんじゃないかっていうドラマだ(笑)
・・・自分でそこまで言うか?と我に返る(笑)
彼はすでにパラリンピックへは3大会連続で出場しているようなトップアスリートで、日本記録もつい最近までずっと維持していたものすごい選手なのだ。
対して僕はまだまだ道半ば。
彼に追いつくためにはもっともっと頑張っていかなきゃならない。
世間からすれば、その年齢で大丈夫なの?と思われるのが当然な世代だけど、僕自身はそんなこと全く気にしていない。
それはきっと同級生の彼も同じ。
だって全ては自分次第だと思っているから。
骨格は変えられない。
けれど、筋肉は増やせる。
ケアはより必要。それは自分自身をより深く理解することでレベルを高め効率良くしていける。
だから、身体は年齢に関係なく作っていける。
それに、パラ競技はもちろん種目にもよるけど、選手生命が一般の競技に比べて長い場合も少なくはない。
それは競技の特性によるところもあれば、正直、パラであるが故に選手層の少なさもあると思う。
だからそれは裏返せばそれだけチャンスがあるということ。
競技人口が少なければ山はそれだけ低いのだから、頂上へは登りやすくなる。
それに甘えるかどうかはまた別の話になるけど、とりあえず上まで登ることはその程度の話ってことになる。
問題はその先。
どこを見据えているか、それが本当の意味での「パラアスリート」なのかそうでないのかを分けるポイントだと思っている。
例えるなら、障害者スポーツを「障害者のスポーツ」と捉えるのか、あるいは純粋に「スポーツ」と捉えるのか、その違いだと思う(僕はそれを「厚労省的」「文科省(スポーツ庁)的」とも表現する)。
僕が最初にそうした考えを得たのは、同級生に再会したまさにその時。
僕の活動の最初の時点でそれはあった。
だから、その線で僕は進んでいく考えだったし、むしろそれが「普通」だと思っていたから、障害者スポーツの山が小さいという認識も全く持っていなかった。
だから「パラリンピックを目指すなんてそんな簡単なことじゃない!」と思ったけれど、それでもやってみようと思えたのは、僕にはその明確なお手本がすぐ目の前にあったから。
まさに、彼のようになりたいと強く思ったからなのだ。
簡単に登れそうな低い山の頂点に立って満足するのではなく、「スポーツ」をする人間として真っ当な評価を得たい、そう思ったからであり、それは今も変わらない。
飲食時代で例えるなら、狭い範囲の地元のコミュニティでそれなりの立ち位置を得て満足するのではなく、どこに出ても恥ずかしくないだけの技術や知識、経験を持って胸を張っていたいと思ったし、だから上京して勉強しいずれはフランスへもと考えていたわけで、そういう思いを持てたのは両親や祖父母の背中から学んだところもあれば、最初に僕を指導してくださった大分のシェフのお陰でもあると思う。
そうした思いが実を結び、今もずっとお世話になっているコーチ達に出会い、指導いただき、それが更に輪をかけて広がっていき、シスコに出会い、トレーナーの先生方にも出会い、僕を成長させてくれている。
結局のところ、僕は本当に人に恵まれているし、そうした方々に育ててもらっているだけなのだ。
自分一人だとこんな風には全く成長できていない。
実にありがたいことだけど、人に恵まれている自分であるのはまず両親や祖父母あればこそ。
だから、今回の卓球王国も真っ先に実家へ送る手配をした(笑)
これを僕自身のきっかけの一つとして、さらに成長していきたい。
年が明ければ試合の予定も複数ある。
もう既にそこへ向けたレースは始まっているし、その先のまだ明確には見えていない目標へ向けても走り続けていなきゃならない。
同級生の彼に追いつきたいし、少しでもその差を縮められるよう頑張っていく。
そして、苦楽を共にした飲食時代の仲間たちにも認めてもらえるよう頑張っていく。
最近は卓球熱がさらに上がったように思う。
でも、熱は上がってもそれを技術や身体の動きで表現出来なければ意味がない。
何が足りていなくて何が必要なのか、どこをどう磨いていくべきなのか、それを考えることそのものが楽しい反面、それを行動に移せない時間がストレスに思える。
「練習をしたい」という気持ちが、以前とは異なるものになっている。
つくづく、若いと思う(笑)
言っちゃった(笑)
バイク乗りであれば分かる「十代のキラメキ」ってやつを未だ失ってはいないのだろうな。
それは言い換えれば「バカに付ける薬はない」ということかもしれない(笑)
反省はするけど後悔はしない。
過去の自分を肯定して、それを財産として、これからも前進していく。
絶望から絶望へ、私の名は希望、希望という名の車椅子乗り(大好きな漫画のセリフのパクリw)。
ちなみに、今回の号には先月の大阪での試合結果も掲載されています。
そして掲載されている僕の記事のフルバージョンが近々ウェブでアップされるそうです。
そちらもお見逃しなく(笑)
その卓球王国で僕が紹介された。
紹介していただいたのだ。
これは実に誉れ高いこと。
憧れてはいたけど、まさかそれがこんな形で実現するとは夢にも思っていなかった。
晴天の霹靂とはまさにこのこと。
最初からそういう予定ではなかった。
僕は別件で取材を受けただけだった。
正確に言うと、情報を集めたいから話を聞かせて欲しいという程度の事だった。
短い時間のその取材を受けたところ、僕自身に興味を持ってくれたのか、僕の卓球に関する半生を綴るという今回の話となった。
まぁ確かに、自分で言うのもなんだけど中々レアなドラマだと思っている(笑)
だって、人生半ばでの障害の受傷で、その後の挫折感がピークに達したまさにドンピシャのそのタイミングで中学の同級生(しかも正真正銘のクラスメイト)が同じ車椅子になっていていたことを知り、さらに彼はまさかの世界トップのパラリンピアンで、いてもたってもいられず即再会、その同級生からの誰の胸にも刺さる超カッコいい一言をもらったきっかけでパラ卓球スタートという、他にはないストーリーを現実に持っているのだから、そりゃぁネタにしたくなっても不思議はない(笑)
そもそも、その同級生の彼とも笑って話したのだけれど、同じクラスから事故で(しかも同じバイクの事故で)二人も脊髄損傷のチェアウォーカーが出るなんて、多分世界中で僕たちだけだと思う。
余談ですが、バイクの事故で脊髄損傷というのは死亡事故よりも確率は低そうです。
その二人が共にパラスポーツ活動を行い、世界を舞台に活躍なんていうと、国内だけでなく海外メディアまで食いつくんじゃないかっていうドラマだ(笑)
・・・自分でそこまで言うか?と我に返る(笑)
彼はすでにパラリンピックへは3大会連続で出場しているようなトップアスリートで、日本記録もつい最近までずっと維持していたものすごい選手なのだ。
対して僕はまだまだ道半ば。
彼に追いつくためにはもっともっと頑張っていかなきゃならない。
世間からすれば、その年齢で大丈夫なの?と思われるのが当然な世代だけど、僕自身はそんなこと全く気にしていない。
それはきっと同級生の彼も同じ。
だって全ては自分次第だと思っているから。
骨格は変えられない。
けれど、筋肉は増やせる。
ケアはより必要。それは自分自身をより深く理解することでレベルを高め効率良くしていける。
だから、身体は年齢に関係なく作っていける。
それに、パラ競技はもちろん種目にもよるけど、選手生命が一般の競技に比べて長い場合も少なくはない。
それは競技の特性によるところもあれば、正直、パラであるが故に選手層の少なさもあると思う。
だからそれは裏返せばそれだけチャンスがあるということ。
競技人口が少なければ山はそれだけ低いのだから、頂上へは登りやすくなる。
それに甘えるかどうかはまた別の話になるけど、とりあえず上まで登ることはその程度の話ってことになる。
問題はその先。
どこを見据えているか、それが本当の意味での「パラアスリート」なのかそうでないのかを分けるポイントだと思っている。
例えるなら、障害者スポーツを「障害者のスポーツ」と捉えるのか、あるいは純粋に「スポーツ」と捉えるのか、その違いだと思う(僕はそれを「厚労省的」「文科省(スポーツ庁)的」とも表現する)。
僕が最初にそうした考えを得たのは、同級生に再会したまさにその時。
僕の活動の最初の時点でそれはあった。
だから、その線で僕は進んでいく考えだったし、むしろそれが「普通」だと思っていたから、障害者スポーツの山が小さいという認識も全く持っていなかった。
だから「パラリンピックを目指すなんてそんな簡単なことじゃない!」と思ったけれど、それでもやってみようと思えたのは、僕にはその明確なお手本がすぐ目の前にあったから。
まさに、彼のようになりたいと強く思ったからなのだ。
簡単に登れそうな低い山の頂点に立って満足するのではなく、「スポーツ」をする人間として真っ当な評価を得たい、そう思ったからであり、それは今も変わらない。
飲食時代で例えるなら、狭い範囲の地元のコミュニティでそれなりの立ち位置を得て満足するのではなく、どこに出ても恥ずかしくないだけの技術や知識、経験を持って胸を張っていたいと思ったし、だから上京して勉強しいずれはフランスへもと考えていたわけで、そういう思いを持てたのは両親や祖父母の背中から学んだところもあれば、最初に僕を指導してくださった大分のシェフのお陰でもあると思う。
そうした思いが実を結び、今もずっとお世話になっているコーチ達に出会い、指導いただき、それが更に輪をかけて広がっていき、シスコに出会い、トレーナーの先生方にも出会い、僕を成長させてくれている。
結局のところ、僕は本当に人に恵まれているし、そうした方々に育ててもらっているだけなのだ。
自分一人だとこんな風には全く成長できていない。
実にありがたいことだけど、人に恵まれている自分であるのはまず両親や祖父母あればこそ。
だから、今回の卓球王国も真っ先に実家へ送る手配をした(笑)
これを僕自身のきっかけの一つとして、さらに成長していきたい。
年が明ければ試合の予定も複数ある。
もう既にそこへ向けたレースは始まっているし、その先のまだ明確には見えていない目標へ向けても走り続けていなきゃならない。
同級生の彼に追いつきたいし、少しでもその差を縮められるよう頑張っていく。
そして、苦楽を共にした飲食時代の仲間たちにも認めてもらえるよう頑張っていく。
最近は卓球熱がさらに上がったように思う。
でも、熱は上がってもそれを技術や身体の動きで表現出来なければ意味がない。
何が足りていなくて何が必要なのか、どこをどう磨いていくべきなのか、それを考えることそのものが楽しい反面、それを行動に移せない時間がストレスに思える。
「練習をしたい」という気持ちが、以前とは異なるものになっている。
つくづく、若いと思う(笑)
言っちゃった(笑)
バイク乗りであれば分かる「十代のキラメキ」ってやつを未だ失ってはいないのだろうな。
それは言い換えれば「バカに付ける薬はない」ということかもしれない(笑)
反省はするけど後悔はしない。
過去の自分を肯定して、それを財産として、これからも前進していく。
絶望から絶望へ、私の名は希望、希望という名の車椅子乗り(大好きな漫画のセリフのパクリw)。
ちなみに、今回の号には先月の大阪での試合結果も掲載されています。
そして掲載されている僕の記事のフルバージョンが近々ウェブでアップされるそうです。
そちらもお見逃しなく(笑)