パラ卓球は身体障害者と知的障害者の競技なのだけれど、そのクラスは全部で11に分けられる。
その内1~10が身体障害者のクラスになる。
大半が身体障害者の競技ということになる。
で、そのクラスがどのように分けられるか?
それは専門のライセンスを持ったドクターの診断を受け、協議の上で正式に決定される。
障害も人それぞれだし、同じ障害でも完全麻痺とか不全麻痺とかもあり人によって異なれば、中には世界的に超レアなケースもあったりして、決して一概に言えるものではないし、だからこそ、同じクラスでも障害の内容は人それぞれ異なるのだ。
中にはドクターも悩むようなケースも少なくはなく、その判定は選手のその後を大きく分けるのでとてもセンシティブでデリケートなものになる。
多分、パラ卓球に限らずクラス分けを求められる競技はどれも同じだと思うし、その問題?課題?とは絶えず向き合っていかなければならないことになる。
だから?「トレーニングをして身体能力を上げるとクラスを変えられるぞ」と言われたこともある。
でもそれってどうなんでしょう?(笑)
僕は脊髄損傷。
この部分を損傷しているから機能するのはこの部分、ここから下は動かせないし動きません、といった「一般的」な基準が医学的に世界レベルで認知共有されている。
でも、それはあくまでも一般的な脊髄損傷者であり、普通に生活を送っている脊髄損傷者だと思う。
でもパラアスリートは必ずしもそうではないと思うし、むしろ違っていて当たり前だと思う。
だって、オリンピック選手だって身体能力は水準をはるかに超えているのだから、パラのアスリートも同様のことが言えるはず。
日々トレーニングを行い、自分を追い込むように活動を行っている人は、必然的に水準を上回る身体能力を身につけていくはず。
だから、「普通じゃない身体の動き」がごく自然と出来ると思うのだ。
障害によって分けられるパラ卓球のクラス。
でも「あのクラスであの動きは普通じゃない」と言わせる動きが出来るからこそのアスリートなんじゃないかなと考える。
でもそれは最初から出来たことではなくて、出来るようになるまで頑張ったから出来ることなのだ。
その方が断然カッコいい。
頑張って出来るようになって、動けるようになって、それでもしクラスを変えられるなんてことがあれば、それはそれで称えられることだと僕は思う。
努力の証なのだから。
競技としては厳しくなるかもしれないけれど、一生の財産になることは間違いない。
そもそも、専門のドクターはそれがトレーニングの結果によるものなのかそうでないのかを見抜く目を持っているものと思われる。
身体能力は高いに越したことは無いし、磨くに越したことは無い。
でも、その「普通じゃない動き」の評価を、その人の努力をたたえるのではなく「障害が軽いから」とあたかも言いがかりをつけるようなシーンを度々目にする。
まぁ確かにそういうこともあるかもしれない。
かつては障害を偽って低いクラスでプレーした選手もいたと聞くし、国際大会でも専任のドクターが常にチェックを行っているから、クラスの変更を指示される場合も少なくはないし、そもそもクラスの判定を受ける時点で万が一に備えているケースもあると思われる。
とにかく、本来のアスリートマインド、スポーツマンシップはまず相手をたたえる、その努力をたたえることにあると思うのだ。
動かせない部分は確かにある。
けれど、動かせる部分も立派に存在し、その部分を鍛え上げる、磨いていくことは出来るのだ。
その結果、「普通」を超えたフィジカルを得ることが出来、そうした動きが可能になると思う。
本人の努力が成せるものなのだな。
それが「障害」という雲に隠れてしまいがちなところはパラスポーツのちょっと残念なところ。
アスリートなのだから、普通じゃなくて当然。
それを障害とかクラスで括った目で見るのは歪んだものの捉え方なのかもしれない。
素直に「すごいね!」「さすがだね!」と見るべきだし、だからこそ、「自分もそうなりたい!」という熱伝導が生じることになる。
生まれた時からプロという選手はいない。
努力したからそうなれる訳だし、努力し続けるからそう居続けられると思うのだ。
障害があるから「出来ない」「出来なくて当然」と考えるのではなく、「どうやったら出来るか」「どうやったら近づけるか」を考えて努力していかなければならない。
けれど、先述したように障害の内容は人それぞれ。
だから、答えも人それぞれ。
どこに正解があるか分からないし、誰かが明確に教えてくれるものでもない。
自分で見つけるしかないのだ。
だから、絶えずトライ&エラーを繰り返し行って、でも諦めずにまた様々考えて、行動し、反省と修正を繰り返し活動していくものなんだろうな。
考えて分からないことも、考え続ければ分かる・・・のかな?(笑)
継続は力なり。
その質が高ければ高いほど、積み重なるものはより大きくなる。
直ぐには分からないけどそれでも考え続け頑張り続けるから身につくものがある。
それが、「普通」「常識」の範囲を超えたレベルへと導く。
パラアスリートってそういうものだろうし、それが世界レベルであれば尚の事。
そんな舞台でやり合うのであれば、「普通」ではきっと厳しい世界になると思う。
そんなレベルではなく、常識を超えた世界でお互いの一番優れた部分をぶつけ合い、正々堂々挑み合うから見る人に感動を与えるのだと思う。
それがスポーツの力だ。
言うのは簡単なんだよなぁ(笑)
理屈は分かるんだよなぁ(笑)
問題は行動すること、そして結果だ。
普通じゃないと評価され、それを誇りに出来るように、毎日をしっかり頑張っていかなきゃならない。
慌ただしい毎日が過ぎていく。
ただ流されるのではなく、自分で進むべき道をしっかり捉えて、自分の足で一歩ずつしっかりと前進していかなければと思う。
車椅子だけど(笑)
自分磨き、多角的に磨いていく。
自分で考えるからこそ成長できる。
自分一人で成長していく訳ではないけれど、成長とは自分で「させていく」ものなのだとあらためて思う。
誰かに「してもらう」ことではない。
自分でする。
雨ニモマケズ、風ニモマケズの心意気で。
でも傘のさせない車椅子では雨には負けがち(笑)
歯を食いしばって頑張るのだ!
その内1~10が身体障害者のクラスになる。
大半が身体障害者の競技ということになる。
で、そのクラスがどのように分けられるか?
それは専門のライセンスを持ったドクターの診断を受け、協議の上で正式に決定される。
障害も人それぞれだし、同じ障害でも完全麻痺とか不全麻痺とかもあり人によって異なれば、中には世界的に超レアなケースもあったりして、決して一概に言えるものではないし、だからこそ、同じクラスでも障害の内容は人それぞれ異なるのだ。
中にはドクターも悩むようなケースも少なくはなく、その判定は選手のその後を大きく分けるのでとてもセンシティブでデリケートなものになる。
多分、パラ卓球に限らずクラス分けを求められる競技はどれも同じだと思うし、その問題?課題?とは絶えず向き合っていかなければならないことになる。
だから?「トレーニングをして身体能力を上げるとクラスを変えられるぞ」と言われたこともある。
でもそれってどうなんでしょう?(笑)
僕は脊髄損傷。
この部分を損傷しているから機能するのはこの部分、ここから下は動かせないし動きません、といった「一般的」な基準が医学的に世界レベルで認知共有されている。
でも、それはあくまでも一般的な脊髄損傷者であり、普通に生活を送っている脊髄損傷者だと思う。
でもパラアスリートは必ずしもそうではないと思うし、むしろ違っていて当たり前だと思う。
だって、オリンピック選手だって身体能力は水準をはるかに超えているのだから、パラのアスリートも同様のことが言えるはず。
日々トレーニングを行い、自分を追い込むように活動を行っている人は、必然的に水準を上回る身体能力を身につけていくはず。
だから、「普通じゃない身体の動き」がごく自然と出来ると思うのだ。
障害によって分けられるパラ卓球のクラス。
でも「あのクラスであの動きは普通じゃない」と言わせる動きが出来るからこそのアスリートなんじゃないかなと考える。
でもそれは最初から出来たことではなくて、出来るようになるまで頑張ったから出来ることなのだ。
その方が断然カッコいい。
頑張って出来るようになって、動けるようになって、それでもしクラスを変えられるなんてことがあれば、それはそれで称えられることだと僕は思う。
努力の証なのだから。
競技としては厳しくなるかもしれないけれど、一生の財産になることは間違いない。
そもそも、専門のドクターはそれがトレーニングの結果によるものなのかそうでないのかを見抜く目を持っているものと思われる。
身体能力は高いに越したことは無いし、磨くに越したことは無い。
でも、その「普通じゃない動き」の評価を、その人の努力をたたえるのではなく「障害が軽いから」とあたかも言いがかりをつけるようなシーンを度々目にする。
まぁ確かにそういうこともあるかもしれない。
かつては障害を偽って低いクラスでプレーした選手もいたと聞くし、国際大会でも専任のドクターが常にチェックを行っているから、クラスの変更を指示される場合も少なくはないし、そもそもクラスの判定を受ける時点で万が一に備えているケースもあると思われる。
とにかく、本来のアスリートマインド、スポーツマンシップはまず相手をたたえる、その努力をたたえることにあると思うのだ。
動かせない部分は確かにある。
けれど、動かせる部分も立派に存在し、その部分を鍛え上げる、磨いていくことは出来るのだ。
その結果、「普通」を超えたフィジカルを得ることが出来、そうした動きが可能になると思う。
本人の努力が成せるものなのだな。
それが「障害」という雲に隠れてしまいがちなところはパラスポーツのちょっと残念なところ。
アスリートなのだから、普通じゃなくて当然。
それを障害とかクラスで括った目で見るのは歪んだものの捉え方なのかもしれない。
素直に「すごいね!」「さすがだね!」と見るべきだし、だからこそ、「自分もそうなりたい!」という熱伝導が生じることになる。
生まれた時からプロという選手はいない。
努力したからそうなれる訳だし、努力し続けるからそう居続けられると思うのだ。
障害があるから「出来ない」「出来なくて当然」と考えるのではなく、「どうやったら出来るか」「どうやったら近づけるか」を考えて努力していかなければならない。
けれど、先述したように障害の内容は人それぞれ。
だから、答えも人それぞれ。
どこに正解があるか分からないし、誰かが明確に教えてくれるものでもない。
自分で見つけるしかないのだ。
だから、絶えずトライ&エラーを繰り返し行って、でも諦めずにまた様々考えて、行動し、反省と修正を繰り返し活動していくものなんだろうな。
考えて分からないことも、考え続ければ分かる・・・のかな?(笑)
継続は力なり。
その質が高ければ高いほど、積み重なるものはより大きくなる。
直ぐには分からないけどそれでも考え続け頑張り続けるから身につくものがある。
それが、「普通」「常識」の範囲を超えたレベルへと導く。
パラアスリートってそういうものだろうし、それが世界レベルであれば尚の事。
そんな舞台でやり合うのであれば、「普通」ではきっと厳しい世界になると思う。
そんなレベルではなく、常識を超えた世界でお互いの一番優れた部分をぶつけ合い、正々堂々挑み合うから見る人に感動を与えるのだと思う。
それがスポーツの力だ。
言うのは簡単なんだよなぁ(笑)
理屈は分かるんだよなぁ(笑)
問題は行動すること、そして結果だ。
普通じゃないと評価され、それを誇りに出来るように、毎日をしっかり頑張っていかなきゃならない。
慌ただしい毎日が過ぎていく。
ただ流されるのではなく、自分で進むべき道をしっかり捉えて、自分の足で一歩ずつしっかりと前進していかなければと思う。
車椅子だけど(笑)
自分磨き、多角的に磨いていく。
自分で考えるからこそ成長できる。
自分一人で成長していく訳ではないけれど、成長とは自分で「させていく」ものなのだとあらためて思う。
誰かに「してもらう」ことではない。
自分でする。
雨ニモマケズ、風ニモマケズの心意気で。
でも傘のさせない車椅子では雨には負けがち(笑)
歯を食いしばって頑張るのだ!