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市島酒造へはバスで10分たらずで着いたがこの酒蔵の先代も母校の先輩である。 市島酒造の“王紋”は甘口清酒で東京はじめ酒好家に人気がある。 市島酒造は昭和55年頃に日本で初めて女性の杜氏が誕生した酒蔵として知られている。 作家、宮尾登美子女史が小説「蔵」(NHKドラマにも放映)書くためこの酒蔵に逗留したと以前に聞いている。
上画像はK,OとY,S氏(2011.4.22)
戦前の幼少の頃、親爺が先々代と交流があり数度、訪れた事を記憶しているし見学が公開されてから2度訪れている。 ここも見学せず同窓と別れて徒歩で10分足らずの生家へ向かった。 生家は長兄が他界し代が変わっているので仏壇に線香あげ、隣に住んでいる長姉家で次姉と久しく懇談した。 生家の向かいには文具類を営む同学年の竹馬の友がいる。
彼は商業高校に進学したが現在は長男夫婦とは別に独居生活をしているが会話は中学時代に同学年だった新発田在住の同窓の情報を教えてもらったがやはり健康様状態で皆どこか痛んでる様子だ。 暫らくすると義兄が加治川の桜が見ごろなので車で案内してくれた。 加治川の桜は子供の頃よく花見に行ったが当時は「加治長堤10里の桜並木」は日本一とも云われていたが戦後間もない頃、某市議の提案で加治川分水門付近の桜の一部を残し殆ど伐採され木材や薪炭にされたが新たに桜が植えられた桜木は50年を経た現在見事再生されている。
母校は明治29年(1896年) の創設で今年、115年を迎えるが政治家・学者や芸能人は多々いるが、これぞと云われる著名人は見られない。 新発田市として歴史に残る人物といえば三度の仇討歴で有名な中山安兵衛(堀部武庸)と明治の実業家大倉喜八郎翁だろう。
※参考≪新発田ゆかりの人物:高校の1年先輩に作詞家の“たかたかし”氏がいる≫
安兵衛は新発田藩主の姻戚の家老職であったが櫓の失火の責でお家断絶で浪人したが何故偉人かを述べる必要はない。 喜八郎は新発田の名主の家の三男だが幕末に江戸へ出て「死の商人」と云われ三井・三菱と肩を並べる実業家となり現在でも大成建設・ホテルオオクラ・日清オイリオグループ・サッポロビールや東京経済大学・・・etcは大倉喜八郎の創設となっている。 神戸に大倉山公園があるが公園は神戸の桜の名所ともなっているがこの公園は大倉喜八郎が造園し神戸市に寄贈したことを神戸に来て初めて知ったのである。
中山安兵衛の菩提寺、長徳寺の住職は同窓会にも参加した元教職にあった坂部兄が中山家の墓守をしている。 22日は新発田で一泊したが夜10時を過ぎると東北電力管下の節電計画のせいか新発田の街は薄暗い街となっていた。
翌朝の23日新発田駅から新潟駅で北越4号に乗り金沢に向かったが新潟県は南北に長いが金沢駅まで約4時間弱を要したが駅の改札出口に3人の旧友が待ち受けていた。
金沢途中下車し友人と1時間ほどお茶でも飲もうと思っていたがオチャケ(酒)になってしまい2時間以上の途中下車となり、16時過ぎの特急サンダーバードで大阪駅には19時に着き8時過ぎには家に着いたが翌朝は宿酔いぎみ。
久しぶりに故郷に帰ったが半世紀以上も経つと街の様子は変われど故郷の景色は変わらず年老いた兄弟・同窓や友人と語り合うのは懐かしく楽しい。 金沢出身の文豪、室生犀星の詩「ふるさとは遠きにありて思ふもの 、そして悲しくうたふもの 、よしや うらぶれて異土の 乞食となるとても 帰るところにあるまじや、 ひとり都のゆふぐれに ふるさとおもひ 涙ぐむ そのこころもて、 遠きみやこにかへらばや 遠きみやこにかへらばや」を思い出し詩の意味を少々感じた。
同窓会に出席しPCをやる人が相当数いたので敢えて3回の書き込みとなったが同窓に当ブログを開いて頂くと嬉しいのである。
訪問したこと無いのに新発田通になりました。
そして、Uchan が郷土・母校を誇りとし愛していることが良く分かりました。
やはり「故郷は遠きにありて・・」でしょうか数年ぶりの帰省となると思いはとなります。