メガリス

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龍馬伝説「天下優先無欲の人伝説」はウソである。

2010年02月10日 22時40分00秒 | 幕末維新

 ‟坂本龍馬は自分自身よりも天下国家のことを優先して考えており、私心の無い無欲の人である”という龍馬「天下優先無欲の人伝説」はウソである。

 平成20年度NHK大河ドラマ『篤姫』で、坂本の妻お龍さんが「龍馬は欲が無い人だ」という旨を語る場面があった。NHKお龍さんと同じように信じている人もいるようだが、それは実在の坂本龍馬とは全く異なる虚像に過ぎない。
  NHK『篤姫』で坂本が「欲が無い」根拠とされたのが例の「世界の海援隊伝説」だ。“坂本が作った新政府案に彼自身の名前が無いことを西郷隆盛が指摘すると、坂本は「役人は嫌だ。わしは世界の海援隊をやりたい」と答えた”というウソ話だ。ウソ話である。しかもNHK『篤姫』では西郷が小松帯刀に変えられていたので二重のウソ話であ

  そもそも新政府案「新官制擬定書」は坂本が作ったものではない。作ったのは当時坂本の近辺に居た戸田雅楽〔とだ うた。後の尾崎三良(おざき さぶろう)〕という人物だ。そして、その「擬定書」には「参議」として坂本の名がちゃんと挙がっている。無論、坂本は承知であろう。龍馬は新政府に参加する予定でいたと考えられる。
 坂本龍馬についての初めての伝記小説『汗血千里駒(かんけつせんりのこま)』を書いた坂崎紫蘭(さかざき しらん)という人物が、『維新土佐勤王史』という本に「新官制擬定書」を引用する際に
龍馬の名前を意図的に削除したのが間違いの元である。後にこれに“世界の海援隊云々と龍馬が語った”という話が付加された。

 龍馬は「欲が無い人」だと思っている人にとって、その主な根拠は大体はこの「世界の海援隊伝説」なので、そうとは言えないということを示すには以上で十分だろうが、駄目押しと言える事実を二つ挙げてみたい。

 先ずは「龍馬公金横領事件」。
 元治元年(西暦1864年)に勝海舟は軍艦奉行を罷免され、後に神戸海軍操練所も閉鎖された。この事件が発覚したのはその海舟罷免の直後だ。

 以下、幕末明治期の政治・思想史研究者として著名な松浦玲氏の『検証・龍馬伝説』(論創社刊)から引用する。文中に登場する「与之助」とは、神戸にあった勝の私塾における事実上の「塾頭」と言える立場だった佐藤与之助(さとう よのすけ)のことである。(坂本が神戸の海軍操練所や勝の私塾で、「塾頭」やそれに相当する立場だった事実は無い。この「塾頭伝説」も後世の創作である。正式発足後の海軍操練所に関しては「塾頭」どころか一練習生ですらない。龍馬のような浪人は入所出来ないことになったからだ。)文字強調は私メガリスによる。

--------------------引用開始

  前年の海舟軍艦奉行罷免の報らせを受けて驚いた手紙で与之助は、松平大隅に預けてあった海舟の金四百両を受取り、指示された支払に三百両を使い、残り百両は自分が持っていると書いた。実は与之助の手許に残ったのは百両ではなくて五十両だった。五十両は松平大隅のところから坂本龍馬ら土佐人が持出していたのである。
 与之助は現金五十両の代りに松平大隅の家来が書いた〆金五十両の「覚」を受取った。この「覚」や他の現金を受取ったのは元治元年十一月二十四日だが、与之助は「覚」のことを伏せた。慶応元年の六月十日になって遂に隠しきれず、海舟宛の手紙に同封したのである。
 その「覚」は十両を坂本龍馬殿へ、十両を高松太郎殿へ、三十両を近藤長次郎殿へで計五十両だった。この順で松平大隅の手許から持出したのである。まず顔の効く龍馬が十両を借りだし、それが先例になって高松太郎が十両、最後に近藤長次郎が纏めて三十両を引き出して合計が五十両になった。各人それぞれがいつ持出したのか記録されていないけれども、元治元年(子年である)十一月二十四日に与之助が引継いだときには五十両に達していたので、松平 大隅の家臣が「子十一月」付の〆金五十両の「覚」を渡したのである。与之助が全部で四百両の筈だった海舟の金を受取ったとき、その内の五十両は土佐の人たちに先に渡してありますという話だったのである。
 与之助は高松太郎や近藤長次郎に返金を掛合ったけれども返事も無い。龍馬には大坂で会ったとき詰問したけれども、とてものこと返納の手段は無いとのことだった。

(中略)

 そのとき与之助は、龍馬が金の持出しを海舟に告白していないことを確認し、返すあてのないことを聞取った。与之助はなおも熟慮を重ね、六月十日に至り遂に報告することに決めたのである。これも龍馬と海舟の関係を考える上での重要なデータとなる。

引用終了--------------------

  佐藤与之助が“龍馬らの粗雑より起こったことで悪意の横領ではない”と庇ってくれたおかげで、勝海舟も大事にはせず済ましたらしいが、勝に一切断り無く大金を持出し使い返却しなかったのだから“横領”と言うしかない。(この横領事件発覚の頃から龍馬と勝は一切の交渉が無くなる。龍馬は死ぬまで勝海舟の愛弟子だったという「生涯海舟愛弟子伝説」もウソである。)
 この頃の1両は現代の5万円程に相当するという見解があり、それに従うと現代の価値で約250万円の横領ということになる。

 もう1件紹介する。
 
坂本龍馬は紀州藩から約3万両前後、現代における15億円前後の金を騙し取っている。「龍馬いろは丸詐欺事件」だ。
 慶応3年(西暦1867年)4月23日、海援隊運用の「いろは丸」と紀州藩軍艦明光丸が衝突し、いろは丸が大破、後に広島県宇治島沖で沈没した。龍馬はエミー銃400丁等武器3万5630両など4万7896両198文相当を積んでいたと主張し、結局紀州藩にいろは丸船代と合わせて8万 3526両198文の弁償を約束させた。(実際の弁償額は後に7万両に減額。)だが、「いろは丸」に乗船していた海援隊士の一人は“積んでいたのは米や砂糖など”と証言しており、以前から龍馬の主張には疑問がもたれていた。

 沈没した「いろは丸」船体が平成元年(西暦1989年)に海中で発見され、それ以後数次に渡って潜水調査が行われたが、積荷には龍馬が主張したエミー銃や弾薬等は一切含まれていなかったことが判明した。鮫皮や水銀朱などが積まれていたのは確認されたが、それらの金額が武器弾薬等の「4万7896両198文」には到底及ばないのは明らかだ。

 実際に支払われた賠償金7万両のうち、ほぼ半分が「いろは丸」船体の弁償金で、残りが積荷代金となる。「いろは丸」の実際の積荷代金が幾らかは判然としないが、龍馬は3万両前後を紀州藩から騙し取ったと考えていい。先ほどと同様に1両を5万円として計算すると15億円前後ということになる。

 数年前にテレビ放送された、歴史上の偉人有名人の人気度を視聴者投票で順位付けし発表するという内容のバラエティ番組で、タレント島田紳助氏が坂本龍馬について「嫌い」「商売人やん」と語っていたのを覚えている。
 だが、まともな「商売人」は他人の金銭を横領したり、他人を騙して金を詐取したりしない。「私心の無い無欲の人」どころか坂本龍馬は立派な「泥棒」「詐欺師」である。